なぜ(3)

画像は、ウクライナ東部で人道支援を待つ子供たちの様子を撮影したものです。

一つの時代は去り、次の時代が来る。
しかし地はいつまでも変わらない。
日は上り、日は沈み、
またもとの上る所に帰って行く。
風は南に吹き、巡って北に吹く。

巡り巡って風は吹く。
しかし、その巡る道に風は帰る。
川はみな海に流れ込むが、
海は満ちることがない。
川は流れ込む所に、また流れる。
すべての事はものうい。
人は語ることさえできない。
目は見て飽きることもなく、
耳は聞いて満ち足りることもない。
昔あったものは、これからもあり、
昔起こったことは、これからも起こる。
日の下に新しいものは一つもない。

出典:旧約聖書「伝道者の書」1章4節から9節まで


聖書は「昔起こったことは、これからも起こる」と不気味な指摘をしています。あたかも将来、起こる出来事を予言しているかのようです。 

聖書は戦争を正当化しようとしているでしょうか。人々が互いに血を流し、殺し合うことを是認(ぜにん)しようとしているのでしょうか。

決してそんなことはありません。聖書は歴史的な事実を述べているに過ぎないのです。ウクライナでの戦争は決して対岸の火事ではありません。

実は今の日本は戦間期の束の間の平和を享受しているだけなのかも知れません。もしかしたら日本の今の時代は将来、戦前と呼ばれることになるかも知れません。

わたしはウクライナでの戦争に強い憤(いきどお)りを覚えていますし、遠く離れた日本にいるとはいえ他人事とは思えません。そして平和を心より望んでいます。

現在、駅前で小中学生を対象にした塾を立ち上げたわたしは純真な男の子や女の子が銃声や爆撃に怯(おび)えて涙を流す光景を正視するに耐えられません。

ひとりのキリスト者としてウクライナの平和のために神に心より祈りを捧げたい、と思います。(了)

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