もうひとつの合格祝福記~辞めていった塾生の母親から届いた報告~

先日、床に就いて寝ようとしていたら当塾を辞めていった生徒の母親からラインがあった。結論から述べよう。かつての生徒は滝中に合格していた。しかも記念受験で。

わたしは、その子の合格はご家族のその子を想う愛情の勝利だと思っている。母親はもちろん父親もその子を愛している。中学受験で大事なのは子どもをどれだけ想えるか、という一事に尽きる。

我が塾へ通っていたとき、その生徒はまだ精神的に幼かった。落ち着きがなかった。しかし、わたしには心を開いてくれて所属する野球チームの試合の観戦に誘ってもらったこともある。

野球が好きで滝中入試当日も所属する野球チームの試合と重なっていたため母親は野球の試合に行ってもいいよ、と言ったそうだ。彼は名古屋中にすでに受かっていた。そして母親は彼が名古屋中に合格したことに深く満足していたのだ。

母親によれば親子で名古屋中に入学するつもりでいた、という。さような事情を考えると今回の滝中合格のサプライズは、ご両親をどれほど喜ばせたことだろう。母親の文面には我が子を想う喜びと誇りが滲んでいた。

母親からのラインの文面を読むと滝中の入試当日、彼も野球の試合に行きたかったそうだ。けれども、彼は自分の意志で滝中の入試を受けた。その結果、合格したのだという。

滝中の入試過去問を見て、これならいけそうだ、挑戦してみたい、と思ったらしい。そして合格してしまった。記念受験で受かるほど滝中は甘くない、というのは常識だ。その常識を軽々と覆したのだ。

名古屋中の国語は受験者平均よりも10点以上、下回ったそうだ。一方で滝中の国語はできた、簡単だった、という手応えがあったそうだ。なお、受験した学校にはすべて合格した、というから驚く。

ラインの文面には合格した有名中学が綺羅星のごとく列挙されていた。この学校のひとつにでも入りたいと熱望しているご家庭は少なくないはずだ。わたしは読んでいて、なぜか胸が熱くなった。

昔、某塾の講師から意地悪された彼。きっちり受験校全勝という穏やかで筋のとおった形で意地悪に報いている。中学受験そのものすら断念しようと、もがいた日々。決して順風満帆ではなかった。

わたしは、そういう彼の事情をよく知っている。それゆえ母親からの報告を聞いて、にわかには信じられない気持ちがしたが、その母親は噓はつかない。というか噓はつけないような人柄の人だった。

わたしは心の中で快哉を叫んだ。やはり小学生は可能性の塊だ。生徒を見限らず期待し続けると、こういう展開があるのだ。だが、この件について、わたしは偉そうなことは言えない。

わたしは、こういう生徒を塾から去らせるような塾長なのだ。それを心の底から恥じる。嗚呼、彼に退塾勧告をしたのは紛れもなく、このわたしなのだ。

期待し続けるとはどういうことか。 先般の報告は、その問いをわたしの喉元にまっすぐに突きつけた。彼は夏の授業前に薬缶から冷えた麦茶を喉を鳴らして飲んだものだ。わたしは目を細めてそれを見ていた。

滝中は今年、創立百周年を迎える歴史のある学校で難関校でもある。しかし、あの幼かった生徒が記念受験で受かる、という事実を知ると簡単に入れる学校なのかと思わず錯覚してしまうくらいだ。

もちろん事実は違う。滝中に簡単に受かる、と思うのは大間違いだ。誤解してほしくない。滝中を受験して落ちた子供たちは多くいる。選ばれた者しか入学できない狭き門なのだ。それだけに一層、彼の合格には価値がある。

読者諸賢よ、そして塾講師各位よ、目が醒めないか。われわれが子供の可能性を信じ、期待し続けるならば、あなたのお子さまも、担当している生徒も、上位校に合格できるのである。

子どもたちは大人の想定を遥かに超えてくる。先日の母親からの報告で、わたしは襟を正される思いがした。先生、今度の日曜日、野球の試合、見に来てよ。真心ある彼の誘いをわたしは断った。

もちろん行きたい気持ちはあった。しかし言い訳は止そう。ふと思う。先般のラインは母親からのわたしに対する険のない意趣返しではなかったか。先生、今度の日曜日、野球の試合、見に来てよ。

この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。

『新約聖書』コリント人への手紙 第一 1章26節―28節

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