ものを知る
「ものを知る」ということは、とても大切ですね。最近はパソコンやスマホを利用すれば何時でも、何処(どこ)でもリアルタイムで色々なことを知ることができます。
みんな顔を俯(うつむ)かせながらスマホの画面を食い入るように見ています。寸暇(すんか)を惜しんで歩きながらスマホの画面を見ている人も少なくないです。
通りを歩くと現代版二宮尊徳は稀ではないのです。これでいいはずはない、と思うのですが、とにかく非常に便利な世の中になりました。
思うに、パソコンやスマホで知ることができるのは「知識」(インテリジェンス)ではなく「情報」(インフォメーション)に過ぎません。
知識と情報との間には決定的な隔たりがあります。情報とは例を挙げれば天気予報や交通情報などです。一日経ったらもう必要がなくなります。一過性のものです。
交通情報とは言いますが交通知識とは言いませんね。情報は刻々と変化してゆきます。一方、知識や智恵は変化していくものではありません。
それゆえ、パソコンやスマホを見ることを以(もっ)て、わたしのいわゆる「ものを知る」ということにはなりません。
古典が色褪(あ)せず現代にも通用するのは情報のようにインスタントなものではないからです。それにもかかわらず、現代人は古典を好みませんね。西洋の古典はおろか日本の古典もあまり読まれていないのではないでしょうか。
さはさりながら、わたしも偉そうなことは申せません。全体の読書量からしたら古典を読んでいるとは、とうてい申せません。これではいけませんね。
「ものを知る」のはなぜ大事なのでしょうか。さような質問にはこう答えます。すなわち、あなたは不条理に満ちたこの世界の意味を知りたくはないのですか。自分自身のレーゾンデートル(存在意義)を知りたいとは思わないのですか、と。
繰り返しになりますが、ここで「ものを知る」というのは知識や智恵を得る、ということです。したがって、いわゆるインターネットを通じて、わたしの言う「ものを知る」ことには至りません。 つづく