ものを知る(2)

考古学的な歴史観や大衆小説的な歴史観では本当の意味で歴史を知る事にはならない。

いわゆるインターネットを通じて、わたしの言う「ものを知る」ことには至りません。いくらウェブサイトを閲覧(えつらん)しても「もの知り人」にはなれないのです。

今で言うインテリのことです。昔はインテリのことを「もの知り人」と言いました。「ものを知る」ということは、すなわち「汝自身を知れ」というあのデルフォイの神託と全然、違いません。

自分自身を知るには確かに自己反省も必要ですが内省にも限度があります。漠然と自分独りで考えても自分を掴(つか)むことにはならない、と思うのです。

自分を知るためには外部からの働きかけに応接することが不可避(ふかひ)です。ですから他人の存在が絶対に必要です。

自分自身を知る、というのは鏡で自分の顔を見るようなものです。われわれは鏡がなければ自分の顔の様子はわかりません。それと同じように、われわれは歴史をとおして自己を知るのです。

いにしえの人は歴史を「鏡」と言いました。読者諸賢も『今鏡』や『大鏡』など我が国の歴史物語の名前を見たり聞いたりしたことがあると思います。これらの古典を読んだ人も当然おられるでしょう。

繰り返し申しますが、われわれは自分独りでは自己を十分に知ることはできません。他者の存在がどうしても必要です。

昔の自分もすでに他人ですよ。 かつての自分は歴史上の登場人物です。そういう次第で過去の自分を振り返って十分に考える、というのが本当の意味で自分を知る、ということなのです。それが、とりもなおさず歴史を研究する、ということの意義なのです。

それゆえに歴史と文学、歴史と哲学を切り離すことはできないのであります。こんなものは切っても切れっこないのです。

現在、歴史研究というのは、いわゆる考古学になってしまっています。したがって、歴史を研究すると称して、そこらじゅうを掘り返しています。そういう作業に意味がない、とは申しません。

意味がないとは申しませんが、やはり歴史を研究することの本当の意味とは先に述べたように究極的には自分を知ることに繋(つな)がらなければならない、というのが、わたしの考えです。(了)

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