ダンテの『神曲』を読む
かつて、わたしはダンテの地獄篇、煉獄篇、天国篇の三部から成る『神曲』を河出文庫の平川訳で読みました。
尾籠(びろう)な話で恐縮ですが同書をトイレに置いておき小用の都度、数ページ繰る、という読み方をしていました。
同書を読んでみると、すぐに判りますが様々な予備知識がないと何を述べているのか、さっぱり分からない、ということになります。
旧約、新約の聖書の知識が求められるのは、もちろん、ギリシャ神話の知識も当たり前のように出てきます。
そして、いわゆる世界史も知らなければ理解できません。『神曲』は自分の教養を総動員しなければ読めない本なのです。
ダンテの『神曲』はどの篇も聖書の知識、ギリシャ神話の知識、世界史の知識が前提となっているのです。
わたしはギリシャ神話については何も識らないです。しかし聖書の知識は幼い頃に日曜学校で叩き込まれていますので旧約、新約の聖書についての話はよく分かります。
日曜学校で学んだことには大人になった今とても役に立っています。聖書の知識なら凡百の知識人にも引けを取らない自信があります。
遠い昔に高校で習った世界史は今では、ほとんど忘れていますが分かるものもあります。『神曲』を読んでいると自分の無学さが身に染みます。
けれども、それにもかかわらず、高校時代に世界史を学んでおいて本当によかった、と思わぬわけにはまいりません。
たしかに後になって独学で勉強するのも決してできないことではありません。しかし、頭の柔らかい若い時に世界史全体を学べたことは本当によかった、と思っています。
歴史は勉強してみると洋の東西を問わず面白いし、勉強する意義も十分にあります。本物の歴史書は涙なしでは読めないものです。それくらい感動します。
日曜学校で眠い目を擦りながら不滅の大古典たる聖書を学んだことも今となってはいい想い出です。皆が公園などで遊んでいるのを尻目に日曜学校に通うのは時に辛かったです。
けれども、今振り返ると日曜日に教会の日曜学校で聖書を勉強できたのは幸せだったのだなあ、と思います。そのお陰で『神曲』がどうにか読めるのですから。