汗一粒の賢さ

一人静かに瞑想するひと時を持つ事は忙しい現代人の心を潤すのではないでしょうか。

少なくない数の人たちがスマホの画面と睨(にら)めっこしています。なかには歩きながらスマホを見ている人さえいます。スマホの画面を見ていない人でも耳にイヤホンをつけて音楽を聴いています。

これでは頭の中は空っぽになってしまいます。思考停止状態にならざるを得ません。今や「沈思黙考」とか「瞑想」とかいう言葉は古色蒼然(こしょくそうぜん)とした化石のような言葉になっています。

いわんや「祈り」などそもそも思いに浮かんでくることさえありません。現代人は理性を重視するあまり宗教を色眼鏡でみて前論理的である、と軽蔑していますから。

しかしながら、さような偏見を持っている人物に限って侮蔑(ぶべつ)する宗教の経典を読む努力を怠っています。

例えば、聖書を真面目な態度で読んでみてください。旧約聖書と新約聖書を通読するだけでも簡単にはゆきません。さもなければ聖書を解説した書籍でもいいので真剣に読んでみてください。

宗教を信じている人物は単純素朴な人物だなどと言えなくなるはずです。むしろ聖書に親しんでいる信仰者は知性的な人物であると認めざるを得なくなります。

様々なバイアスをもって宗教を見ている人こそ単純で勉強不足である、とわたしはキリスト者の立場に立って異を唱えたい。

バイブルは歴史の風雪に耐えてきた大古典ですので最新のニュースこそ載っていませんが知識と知恵に満ち満ちています。

昨今話題の真新しい情報であればスマホで、どれだけでも得られるでしょう。しかしながら知識や知恵はスマホでは得られません。

スマホと睨めっこしても賢くはなれません。現代人は手っ取り早く分かりたいのです。しかしながら、分かる、ということと苦労する、ということは同じ意味です。

辛くて苦しい経験をとおして、ようやくわれわれは賢くなれるのだ、と思います。辛くて苦しい勉強で汗を一粒流して、かろうじて、その一粒分、賢くなれるのだ、とわたしは考えます。

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