二種類の議論~現代教育における対話の意義~(1)

画像は、いにしえの賢人であるソクラテスの胸像です。

僕は読者諸賢とのインタラクティヴ(双方向)なやり取りをすこぶる重要な意義を持つものと考えています。そして読者のコメントに返事を書くのは実に愉しい作業であると感じています。

かつて読者のひとりである同じ信仰者のaniさんと「飲酒」の是非について現在はサービスの提供が終了しているgoo blogにて相互にコメントの応酬(おうしゅう)をしていました。

今回はそのなかで僕が気に入っている自分のコメントを記事として、ここに改めて掲載いたします。

古代ギリシャの哲人ソクラテスは徹底的に議論しました。相手を論破するためにでしょうか。否、相手との対話により真理を掴もうと考えたからに他なりません。

そもそも議論にも良い議論と悪い議論があります。哲学用語で相手との対話のことを“ディアレクティーク”と言います。

これとは正反対に相手を打ち負かす雄弁術のことを“レトリック”と言います。この場合の“レトリック”は普通に使われている「修辞学」という意味とは異なりますので要注意です。

ソクラテスは、ご存知のとおり「無知の知」という境地にまで達した、いにしえの賢人です。最期は毒杯を仰いで死にます。

ついでに申しますとソクラテスは一冊も本を書きませんでした。弟子のプラトンが書いた書物の中にソクラテスの人生が詳細に記されているのです。

ソクラテスはこれはと思う人を見つけてはアゴラ(広場)で議論しました。対話をとおして真理を獲得しようと努めたのです。彼は“ディアレクティーク”を好みましたが“レトリック”を憎みました。

というのも、雄弁術は真理の追究とは全く関係がないからです。言うなれば“レトリック”はその当時の雄弁家たるソフィストが利得を得るための卑しい打算的な議論の方法だったのです。

彼らは色々な術策を弄して相手を説得したうえで自分の利益を図ろうとしたのですね。僕も黒を白と言いくるめる“レトリック”を憎みます。

議論の勝ち負けにこだわるとaniさんが仰るように《真実を見つめることなど出来なくなるし、かえって考え方が凝り固まってバランスのとれた物の見方が出来なくなってしまう》からです。

そうなるのであれば議論などしない方がいいのです。しかし、議論に負けることに必要以上に臆病になることもありません。

繰り返しになり恐縮ですが真理を掴むことが議論の目的である、ということをもう一度、確認しておきますね。

したがって、aniさんの仰る《お互い、真理の発見と成長のために今回の議論が有益なものになるといいね》という主張には大賛成です。議論の眼目はそこにあるのです。

それは丁度、ソクラテスの考え方とも見事に一致します。aniさんは今回のコメント・タイトルに「やっぱり議論じゃん!」と書かれています。

しかし、すでに述べたように議論にも二種類あります。くどいようですが、良い議論と悪い議論です。
(つづく)

目次

📝 この記事に登場する難しい言葉の一覧表(AI作成)

用語説明補足
ディアレクティーク哲学用語で「対話による真理探究」を意味する。相手とのやり取りを通じて真理に近づく方法。古代ギリシャ哲学で重視された。英語では dialectic
レトリック本来は「修辞学」を指すが、ここでは「雄弁術=相手を言い負かすための言葉の技術」を意味する。ソフィストが利得のために用いたと批判される。
ソクラテス古代ギリシャの哲学者。「無知の知」を説き、対話を通じて真理を探究した。弟子プラトンの著作により思想が伝わる。
アゴラ古代ギリシャの都市にある広場。市民が集まり議論や交流を行った場所。ソクラテスが議論を行った場として有名。
ソフィスト古代ギリシャの職業的弁論家。雄弁術を駆使して報酬を得る存在。真理探究よりも説得・利益を目的とした。
無知の知ソクラテスの思想。「自分が知らないことを知っている」という認識。謙虚さと探究心の象徴。

※この記事はわたしが、2017年7月8日にgoo blogに記したものです。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次