二種類の議論~現代教育における対話の意義~(2)

すでに前回の記事で述べたように議論にも二種類あります。くどいようですが、良い議論と悪い議論です。

具体的に申しますならば“ディアレクティーク”と“レトリック”です。おそらくaniさんは僕の文章の中に悪い方の議論たる“レトリック”のにおいを嗅ぎ付けられたのでしょうね。

そこは僕の書き方の拙(まず)さがaniさんの誤解を招いてしまったことをお詫びしなければなりますまい。

繰り返しになりますが議論の勝ち負けではなく真理を知りたい、という切実な願いを持って僕は議論しているつもりです。

これは僕の変わらぬ考え方であり生き方でもあります。けれども、残念なことに、こういう在り方をお堅いと揶揄(やゆ)される方がキリスト者の中にもいらっしゃいます。

それでは、キリスト者になった甲斐がないではないか、何のためにキリスト者になったのか。思うに僕たちは人の歓心を買うためにキリスト者になったわけではないはずです。

そうではなくて神のみ側に近づき勇ましく高尚な生涯を送るためにキリスト者にさせていただいたはずです。これが明治のキリスト者、内村鑑三の講演を筆記した『後世への最大遺物』の要約です。

aniさんの今回の論文を読ませていただきました。あれほどの長文でありながら論理に全く破綻がないことに驚きました。そして、お酒を飲む理由もしごく納得のゆくものでした。

前回のコメントに《健康維持のために酒を飲むというのは如何にももっともらしいですね》なぞと失礼なことを書いて後悔しています。誠に申し訳ありませんでした。

僕がお酒を飲むキリスト者に寛容になれないのは、そこに世間に調子を合わせている卑しい姿勢を見るからです。酒席で飲酒を拒否し、お茶などを啜(すす)っていれば好奇の眼で見られるのは必定です。

そこで保身のために何食わぬ顔をして杯やジョッキを仰ぐのです。そういう世間では罷り通っているがキリスト者として必ずしも相応しくない行為をするキリスト者を僕はあんまり見過ぎています。

キリスト者は賢く生きるのではなく損をしても正しく生きる人生を選び取った人間ではなかったのか。

けれども、たいていは正しく生きるよりも賢く生きる打算的な世間の生き方を追認しているというお粗末さです。

果たして聖書はaniさんの仰るように本当に飲酒を禁じていないのでしょうか。aniさんのように健康上の理由があるなら格別、僕はお酒を飲むということを肯定的にとらえることはできない。

aniさんはコメントの最後の段落で《それにしてもヨシ樹君は「飲酒」=「アル中になる」くらいの勢いで書いているけれど、かなり極端だな~。感情的にさえ見える》と記されています。

以上の文章に対する僕の考えを次回の記事でくわしく述べます。(つづく)

※この記事はわたしが、2017年7月8日にgoo blogに記したものです。

目次

記事に登場する難しい言葉の一覧表(AI作成)

用語読み方意味・説明
ディアレクティークでぃあれくてぃーくギリシャ語由来の「弁証法」。対話を通じて真理を探究する議論の方法。
レトリックれとりっく本来は修辞学の意。言葉の技巧や説得のための表現方法。真理追求よりも印象操作に使われることもある。
キリスト者きりすとしゃキリスト教徒。信仰を持つ人を指す。
内村鑑三うちむらかんぞう明治期のキリスト者・思想家。著書『後世への最大遺物』で有名。
後世への最大遺物こうせいへのさいだいいぶつ内村鑑三の講演録。人が後世に残せる最も価値あるものについて論じた作品。
真理しんり物事の本質的な正しさ。議論の目的として強調されている。
勝ち負けではなく真理を知りたいかちまけではなくしんりをしりたい議論の目的を「勝敗」ではなく「真理探究」に置く姿勢。
保身ほしん自分の立場や安全を守ること。記事では「酒席での振る舞い」に関連して使われている。
打算的ださんてき計算ずくで損得を考える態度。記事では「世間的な生き方」として批判的に使われている。
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