亡霊小林秀雄との対話(2)
小林 例えば、あえて飛躍するけどね。合理的に考えよ、と現代人はよく言うね。君は考える、ということはどういうことだと思う?
水上 うーん、それは…。一般的には「少なく蒔いて多く刈り取る」という考え方が効率のよい合目的的な考え方とされています。
ところが先生はそれとは対照的に考えるということは悩み抜く、あるいは考え抜くことだ、と主張されていますね。
延々と考え続けて、それでも結論が見えて来ないこともある。まあ、言ってみれば、不器用な考え方、と言えるかもしれません。
小林 そうなのだ。君は不器用だ、と言ったが僕は決してそうは思わない。物を考える、というのは本当は、そう簡単に片付く作業ではないのです。かえってしんどい。
しんどい作業が今日も明日も明後日も延々と続いて行く。それでも答えが見つからない、なんてざらにありますよ。しょっちゅうです。
けれども、それが普通なのだね。常識じゃないか、そんなことは。君は初めにしんどい、と言ったじゃないか。
本を読む、ということは整理されているにせよ、物を考える、というプロセスをなぞる様なところがあるからそういう意味では確かにあなたの言うとおり、しんどい面もあるのです。
ただ、難しいから、すぐ答えが見付からないから、といって、その迂路を避けて近道しよう、なんて魂胆では駄目なのです。そういう楽な道からは君が欲している果実は得られない。
だから、こう言えるかもしれない。しんどくない読書は警戒すべし、と。
水上 なるほど。一理ありますね。先生の主張に基本的には賛成です。ただ、二つの点で疑問があります。まず、先生の主張はどこか知的マゾキズムが漂うような感じがしないでもない。
あえて利便性や効率のよさを犠牲にしてまで先生の美学を貫く必要性はあるのでしょうか。これが第一点。
次に、先生は一般的に言われている近代合理主義思想を批判していますが、ご存知のとおり、いわゆる合理主義思想は近代科学の発展と分かち難く結びついています。
そして科学の文明への貢献の度合いは決して無視できるものではありません。そこのところに目を瞑って、評価しない、というのは随分おかしな話ではありませんか。
つづく