仁斎の授業
仁斎の講義を聴くと何だか物が解ってくるのですね。したがって、塾生は喜んで月謝を支払いました。「こんなにいいことを教えくれるなら是非わたしも寄せてもらいましょう」と。
彼は、人はどう生きるべきかを教えました。彼が語ることを聴いていると、どう生きるべきか段々、解ってくるのですね。人間にとって、こんなに嬉しいことはないじゃありませんか。
学問は何のためにするのでしょうか。学問は、どう生きていくか、どう暮らしていくか、どう働いていくか、を学ぶためにする、ということになるのではあるまいか。
そうであるならば、武士にも町人にも百姓にも誰にでも学問は必要になるのではないでしょうか。あらゆる階級の人々に必要になるのではあるまいか。
仁斎の考え方からすれば学問をすれば百姓の仕事がはかどる、というのが本来の学問のあるべき姿です。
仁斎は学問をしても百姓の仕事には何の足しにもならない出世のための学問を忌み嫌いました。それゆえ、当時のアカデミーに敢然と反旗を翻(ひるがえ)したのです。
講義を聴いた百姓は故郷に戻り、講義を筆記した帳面を何度も読み返しました。そうすると今までの農業指導書に多くの誤りがあることに気づくようになりました。
彼は聴いてくれる人が誰もいないので間違いがあるのが判ると「間違った」とひとりでつぶやき、手を打った。
その百姓は「間違った」と言っては手を打ってばかりいたので周りの連中は彼を気違いとみなして、ああいう半気違いの傍(そば)には寄るな、ということになりました。
村長が死ぬ時に「学問もいいかも知れんが学問をすると、ああいうことになるから、この村では学問をすることは罷りならん」と遺言をして死んでいった、という逸話があるくらいです。
その内に十年経ちました。次第に手を打ってばかりいた狂人が偉い、ということが誰の目にも明らかになりました。そして、その地で聖人として生涯を終えました。
仁斎はそれを悼(いた)んで惜しい人を亡くした、として記録に残しています。『仁斎日札』によれば狂と言われながらも聖人として立派に生きたお弟子さんが三人いたそうです。