働くということ(後編)

思うに児童には児童の、老年には老年の試練があるのかも知れない。

前編を読んでこられた読者諸賢はあの年輩の店員をどう思われるだろうか。使えない店員、空気が読めない店員、など思うところは色々あるだろう。

しかし、わたしは、この年輩の店員こそ勇気のある漢(おとこ)だと思うのだ。わたしも、もう若いとは言えない年齢の人間だが、まさかこの年でマクドナルドで働こう、とは決して思わない。

調理場で働いているスタッフが若い連中ばかりであることはマクドナルドでハンバーガーなりポテトなりジュースなりを注文した経験のある人なら誰でも判ることだからだ。

若い連中のなかに飛び込んでゼロから仕事を覚える、というあの年輩の店員の態度には素直に頭が下がる。

若い店員のいる職場に思い切って飛び込んでも、もらえるお金はたかが知れている。ご承知のとおり、なにせ給与は時給で計算されるのだ。

それゆえにこそ、わたしはこの年輩の店員の仕事に対する姿勢は、なおさらに尊いと思う。少しばかりもたもたしていて手つきも怪しいかも知れないが一生懸命がんばっている、と思う。

若いのに引きこもっている人に見せたいくらいだ。むろん引きこもっているのには、それなりの理由があるのだろう。仕事をしたくてもできない、という人にはわたしは同情を禁じ得ない。

しかしながら仕事ができるのにもかかわらず仕事をしたくない、という怠け者には、この年輩のファストフード店の店員の爪の垢を煎(せん)じて飲め、くらいのことは申し述べたい。

若い店員のなかで孤軍奮闘している年輩の店員。これは驚嘆すべき謙虚さである。わたしも見習いたい。もしかすると見逃してしまいそうな克己(こっき)だ。

否、克己と述べてしまうと間違うだろう。勇気という表現こそが相応しい。こういう人をわたしは心より応援したい。

次回、帰省した時にこの尊敬すべき年輩の店員が元気に笑いながらスムーズにコーヒーをわたしに渡してくれることを心から期待する。

彼にまた逢いたい。ぜひ辞めないで頑張ってほしい。心からそう思う。名前も知らない要領の悪い年輩の店員。けれども、わたしは、くだんの店員にいささかも気分を害されなかった。

それは彼の仕事に対する誠意が、誠実さが、かつて、ごちゃごちゃ屁理屈を述べて働きたくない、と駄々をこねる怠け者と論を戦わせたときの気分の悪さとは対照的だったからかも知れない。

こういう人がいたのだ。いてくれたのだ。わたしは少なからず感動していた。人知れず苦労している不器用な年輩の店員の勇気にわたしは心から敬服させられた。(了)

※この記事は2022年4月1日に書きました。

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