友との対話

酒は古来、気違い水と呼ばれてきました。西洋では悪魔の水とも呼ばれています。

友人:僕が18切符(註:JRの“青春18きっぷ”を指す)で帰るのは、もしこれを止めると自分ではなくなるような気がして。水上君が酒を1滴も飲まないのも飲むと自分ではなくなってしまうから?

わたし:僕が酒を飲まないのは自由と尊厳を守りたいから。酒に束縛されたくないから。酒がないと本音が喋られないような輩(やから)に成り下がりたくないから。等々。

友人:僕も自由と尊厳のため18切符で・・。ここ笑う所です。論拠、了解しました。やはり水上君らしさを保つためにもそれらは譲れませんね。

わたし:少し熱くなりました。ただ僕は大真面目でそう考えています。酒を飲んでゲロを吐く人をどう思いますか?飲酒運転で人を死に至らしめる人を赦せますか?

友人:大真面目、結構です。ただ酒に全く良い点がないと思われるのであれば飲酒論において議論、ましてや止揚(しよう)はもはや起こりえないですよね?

わたし:うーむ。確かに。止揚かあ…。でもキリスト者としては飲酒問題を然りとは言えない。否(いな)と言うしかない。つまり議論の余地はほとんどない、と僕は考えます。

友人:分かります。それでいいんです。首尾一貫してぶれてない。全ての論点が議論すべきとはならないでしょう。切り捨てるのもあるでしょう。ただ僕は・・。

わたし:ただ僕は・・の続きが知りたいね(笑)。僕はメールが好きです。反対に喋るのは苦手です。

友人:もちろん僕は・・の続きはできれば世の中のあらゆる論点を切り捨てる事なく悩みながら議論したいと思っています。

わたし:四十にして惑わずと孔子はのたもうた。悩んでいる間に彼岸へ行きます。でも難しいですね。

友人:例えば以前お話した弁護士同士の同性愛者。キリスト教で禁じられるのは分かりますが現実の世界でそういう人がいる。その人達をどうする?僕は認めたい。
 

友人:僕は物事には必ず二面性があると思っています。一方だけを見て議論はできない。結局、面倒でも両面のバランスを取っていく事が寛容な社会だと信じます。
 

友人:メール討論も味がありますね。時々やりますか。携帯電話が2メモリとなりました。孔子は四十と言ってもまだまだ悩めとの思いで言ったと聞きました。

わたし:承知しました。メールのやり取りもこれで終わりましょうか。僕もこれから実家に向かいます。お付き合い誠にありがとうございました。

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