古典を読む意義

古典は青年の君にも壮年の君にも老年の君にも応えてくれる懐の深さがあります。

われわれが、この人生行路を歩んでいる途上で問題や課題に逢着(ほうちゃく)したときには、ただ空漠と物思いに沈んでいても問題は解決しません。

静観して手をこまねいていたら事態はさらに悪化するかも知れません。そういうときに、わたしは人に訊ねる前に書物に問題解決の為のヒントを求めて調べてみます。

わたしの場合は問題を解決するための手立てを本のページを繰ることで得ようとしているわけです。

今生(こんじょう)には、すでに存在していないけれども、いにしえの賢人や知恵者に時空を超えて訊(たず)ねてみるのですね。

現代の大問題の解決策が実は古代の巻物にすでに記してある、ということさえあり得るのです。これは決して大仰な表現ではありません。

本を読んでいれば解決策が載っている場合もあるわけですので、その場合は対策を講じることができます。

頭を抱えてただ悩む必要はなくなり問題に前向きに対処することができるようになるのです。そう、キリスト者が不滅の大古典である聖書を毎日、飽きもせず読む理由はそこにあるのです。

聖書に限らず古典を読む意味はそこにあります。古ぼけた本を嬉々(きき)として読むことの意味はそこにあり、古典が繰り返し読むことに耐えるゆえんも同じです。

究極的に述べますと昔の人と現代の人は全然、違いません。いにしえの人間であっても洋の東西を問わず善人は必ずいました。悪い輩も必ずいました。賢人も愚人も当然いました。勇気がある者も臆病者もいました。

いわゆる種としての人間は有史(ゆうし)以来まったく変わっていません。わたしたちの顔に目があるように鼻があるように、いにしえの人たちの顔にも目があり鼻がありました。

肉体的な構造が同じであるならば精神構造も現代人と全く異なるところはなかった、と考えても一向に差し支えはありますまい。だから古典を読む意味があるのです。

古典に書いてある内容は現代にも当てはまります。古典は現代に生きているわたしたちと決して無関係ではありません。むしろ現代的な問題、課題にもビビッドに応じてくれる懐の深さが古典にはあるのです。

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