国語教師としての大村はまの基準を思う

画像は国語教師として現役で働いていたときの大村はま先生の授業風景です。

昨晩、48度の風呂に入りながら大村はまの本を読んでいたら次のような文章にはっとさせられた。少し長くなるが以下に引用する。なお、改行は引用者が行った。

教師の仕事はこわいもので、あり合わせ、持ち合わせの力でやっていても、やさしく、あたたかな気持ちで接していれば、結構、いい雰囲気を作れるものです。

子どもはもちろん、父母や同僚とも、いい関係を持っていけるものです。いい教師で過ごせるものです。

そこがこわいところです。安易に流れず、なんとかすますのでなく、人を育てるほんとうの仕事を見つめ、畏れながら、力を尽くしたいと思います。

端的に言えば、あり合わせ、持ち合わせの力で、授業をしないように、ということです。何事かを加えて教室へ向かい、何事かを加えられて教室を出たいと思っています。

「いきいき」させるものは、そういうところから生まれてくると思います。

大村はま著『日本の教師に伝えたいこと』(筑摩書房刊)

以上の文章を一読すると、この教師はただ者ではないことが明瞭に判る。何と高い基準だろうか。著者は理想の教師像はかくあるべし、とは述べていない。

あり合わせ、持ち合わせの力で授業を行うことを厳に戒めているのだ。教師としてものを教える経験をしたことがある者なら大村の言葉の基準にどきっとするはずだ。

以上の基準は学校の教師の最低限のモラルである、と大村は述べているのではないか。そうであるならば塾講師はそのモラルを上回らなければならない。

わたしが新米講師だった昔、塾の上司は「水上先生、塾は学校に勝たなければならないのです」と述べていた。今でも心の中で反芻している言葉のひとつだ。

塾の教え方に学校の教え方よりも魅力がなければ、そもそも塾へ通う必要はない。ゆえに塾の授業は魅力的でなければならない。

わたしは、いつまでも現役で塾講師として働きたい、と心より思う。だが後、廿(にじゅう)年、元気に働けるかどうか。元気に働けるうちは熱心に、精力的に、働きたい。

最後に、楽をして、言い換えると、あり合わせ、持ち合わせの力で授業をしていたら当塾を叱咤する意味でも生徒諸君は退塾して構わない、と自戒の念を込めて記しておきたい。

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