大きな疑問
今、日本は百年に一度の大不況だといわれています。識者の中には近代以降では明治維新、太平洋戦争と並ぶ三回目の大きな転換期である、という人もいます。
正社員、派遣社員に関係なく使えない人間は容赦なく馘首(かくしゅ)されます。リストラが横行し、まだ二十代、三十代の将来ある若い人達がネットカフェで雨露を凌(しの)いでいます。
そうかと思うと、かつて世間を騒がせた某大手人材派遣会社の社長は不正の富を手にして個人で自家用ジェット機を所有していたといいます。
上記の貧富の二極化を勝ち組、負け組とステレオタイプに喧伝(けんでん)して不安を煽(あお)っているのがマス・メディアです。
そのマス・メディアのご託宣(たくせん)を鵜呑みにして、いたずらに焦ったり不安を抱いたりしている人々は意外に多いと思います。そこで、われわれはこう思うのです。「天は何を見ているのだ」と。
この言葉の出典は作家中島敦の『弟子』という短編です。弟子というからには師がいるのだろう、と思われるかも知れません。そのとおりです。師は孔子です。
孔子の一番弟子に子路(しろ)という熱血漢がいたのですが中島が作中で彼に言わせた台詞(せりふ)です。子路には子供の時からの大きな疑問が一つありました。
それは「邪が栄えて正が虐げられる」という、ありきたりの事実についてである。
(中略)
なぜだ?
なぜだ?
大きな子供・子路にとって、こればかりは幾ら憤慨しても憤慨し足りないのだ。
彼は地団駄を踏む思いで天とは何だと考える。
天は何を見ているのだ。
そのような運命を作り上げるのが天なら、自分は天に反抗しないではいられない。
出典:中島敦『弟子』
今この子路の考えに共感できる人は少なくない、と思います。思わず膝を叩いた人もいるかも知れません。それだけ巷間(こうかん)には不条理なことが多いのです。 つづく