大きな疑問(2)
神も仏もあったものか、と思わず慨歎(がいたん)したくなることが巷間には多過ぎます。子路にとっての天とは、われわれのいう神や仏と同義なはずです。
しかし、だからといって、われわれは「天は何を見ているのだ」と言うだけでふて腐れていても何も変わりはしません。手をこまねいて傍観することを胸中で密かに首肯してはなりません。
われわれは怒らねばなりません。天に対してでしょうか?否。今、社会に跋扈(ばっこ)している邪に対して、であります。
ヒューマニズムというのは怒りを知らないことであろうか。
そうだとしたなら今日ヒューマニズムにどれほどの意味があるであろうか。
出典:三木清『人生論ノート』
と獄死した哲学者三木清もその著書である『人生論ノート』で述べています。では、何時怒るべきでしょうか?邪によって正義が蹂躙(じゅうりん)された時に、であります。
愛ばかりが小説の題材になり、歌謡曲の大半を占めるご時世です。この時代にあって怒る人間はもしかしたら疎(うと)んじられるかも知れない。嫌われるかも知れない。
けれども、責められるべきは「憎しみ」であり、「怒り」ではないのです。怒る人間は密かに胸中で憎しみを抱いている人間より常にも恕(じょ)せられるべきです。
密かに憎む人間は優しい心を持たない高慢な人間だ、とスイスの思想家カール・ヒルティーもその著書『幸福論』の中で述べています。
正義があなたの眼前で踏み躙(にじ)られている際、あなたはへらへら笑ってお愛想を言うのでしょうか?直言しなければならない奴はいるのであります。大声で抗議しなければならない奴はいるのであります。
その時ぞ夏目漱石がその著書『吾輩は猫である』で記した豚的幸福を謳歌(おうか)している、いわゆる勝ち組とは質の異なった真の勝利を得られるはずです。そう、わたしは信じています。 (了)