天白区平針駅前にある中学受験国語専門塾の塾長雑感(22)

ニール・セダカ氏の“雨に頬笑みを”をYouTubeで視聴したら胸がいっぱいになった。一掬の泪が滲んだ。こんな名曲があったのだ。何回も繰り返して聴いた。こういう何気ない感動を掬い上げることが書くということである。

物を書く技術など実はあってないようなものだ。最初に明瞭な感動があってそれを文章に仕立て上げる。それだけのことだ。ニール・セダカ氏は今年、逝去された。謹んで哀悼の意を表したい。

新約聖書によれば罪を犯していない使徒パウロとペテロは鞭打たれた後に牢屋で讃美歌を歌っていた、という。彼らのうちの信仰の火は官吏に捕えられたことでいよいよ明々と燃え立ったのだ。

一つの歌が胸の奥の火を呼び覚ますとき、人は時代も境遇も越えて同じ場所に立つのだと思う。然り、歴史はすべて現代史なのだ。使徒とわれわれの心性は変わらない。覚悟が決定的に違うだけだ。

外側は満身創痍の彼らだったけれど内側は明瞭な感動が沸々とあったのだと思う。わたしの父は牧師だったが、ふだん温かいものが胸のうちにあると言っていた。感動がなければ『日本切支丹宗門史』に記録されたような聖徒たちの殉教は決してできない。

おお、神よ、この世ではわたしは家もなく、妻もなく、自動車すらも持たず、毎日、お金のことであくせくしていて、満たされず、軽くあしらわれ、からかわれ、それでも誠実に職務を遂行しています。主よ、彼の国では僕(しもべ)のことを思い出してください。

タレントだった女性が300円のサンドウィッチを万引きして現行犯逮捕された由。誰も彼女に手を差し伸べないのだろうか。そんなに困窮しているなら当塾の階下にある弁当屋の弁当を奢るよ。父は教会に貧しい人が訪れると現金ではなく食べ物を直接、渡していた。

お金を渡すとお酒や道楽に費消してしまう惧れがあったのだ。困窮したら相互扶助の精神で互いに助け合うべきだと思う。言うは易く行うは難しだが。最終的には行政と連携を取っていきたい。

昨日、昼飯を食べて片付けていたらドアを叩く音がして少年が塾の玄関前に立っていた。昨日はお昼の12時半に授業を始めることになっていたが完全に失念してしまっていた。

急いで準備をして机の表面をティッシュペーパーで何回か拭いて小テストから始めて過去問を解いてもらった。外出していたらアウトだった。生徒はいい点数が取れたので機嫌よく帰って行った。

生徒は翌日から家族で旅行に行くという。わたしも少年だった頃、春休みに家族旅行に連れて行ってもらった。けれども新学期のことを色々思うと憂鬱だったことを思い出す。教師たるもの学生には学生の悩みがあることをゆめゆめ忘れてはなるまい。

関連する随筆を、こちらに置いておきます。

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