はたして子供は勉強さえしていればいいのか?

画像はあくまでも農作業のイメージです。思うに農作業はキツイ労働のひとつです。

近頃の子供たちには勉強だけしていればいい、という良くない風潮が蔓延しているように見受けられます。はたして子供は勉強だけしていればいいのでしょうか。

父の話で忘れられない話があります。それは農繫期に「明日は学校の試験なので家の手伝いを勘弁してもらえないか」と父の父に言ったら一蹴(いっしゅう)されたという話です。

農家の主(あるじ)だった祖父は教育熱心でしたが子供たちに家の仕事を手伝わせることに躊躇(ためら)いはなかったようです。

家族が一丸(いちがん)となって家の仕事を手伝わないと生活していけなかったのです。したがって祖父は子供が家の仕事を手伝うことは当然のこと、と考えていたのです。

祖父は戦争に行って復員してから戦後の貧しい時代を生きた人でした。父も幼い頃、戦火を見た記憶があるそうです。父は長ずるに及び新潟大学に進学しました。

試験の前に勉強ができるのは決して当たり前のことではないですよ。保護者の方も子供が勉強さえしていれば、それで安心している始末です。子供に手伝わせることなど寸毫も考えません。

そもそも勉強は誰のためにするのですか。自分のためではないですか。それならば勉強に取り組むことは利己的な行為と言えるかも知れません。勉強が後回しになることもあり得る。

かつての日本は貧しかった。それゆえ子供は登校前に納豆を売りに行ったのです。雪が降りしきる早朝に洟を垂らし、かじかんだ両手で数枚の硬貨を受け取って生活の足しにしたのです。

暖衣飽食の現代とは大変な違いです。だから今の子供は勉強ができても威張ることはできません。何となれば今の子供たちは納豆売りも農作業もしなくていいのですから。

しかし妙なことに子供たちの勉強への意欲は昔よりもなくなっているような気がします。無理もない。現代の勉強は成功を収めるための手段に堕しているからです。

思うに成功と幸福は同義ではありません。子供たちは、そのみずみずしい感受性でさようなことを本能的に判っているのかも知れません。密かに反撥しているのかも知れません。

それゆえ今の子供たちには勉強に対する欲望がありません。昔は人生とは何ぞや、という疑問がいったん生じたら非常に熱烈なものになりました。誰も教えてくれませんから。

したがって都で仁斎(じんさい)のように真の学問を教えている塾がある、という噂を耳にすると百里を遠しとせずに足を運んだのです。

仁斎は現代のような出世のための学問を憎んだ人です。そして、ご承知のように、その当時のアカデミーに敢然と反旗を翻して真の学問を追究した人物です。

学問をするから百姓の仕事がはかどる、というのが真の学問です。出世するための勉強ばかり教わっていたら誰だって嫌になります。家の仕事を手伝うことにも大いに意義があるのです。

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