宗教2世問題
人の顔色を窺いながら物は書けません。もちろんテーマが微妙なときは相応の配慮は必要でしょう。けれども、ときには千万人を向こうに回してでも述べるべきは述べるべきです。
真のキリスト教徒はときの為政者にさえ直言しています。旧約聖書を読んでみてください。為政者である王に直言して死刑になっている預言者は枚挙に暇(いとま)がありません。
なかには暴君の逆鱗に触れて木製ののこぎりで処刑された預言者(よげんしゃ)もいます。預言者とは神の言葉を預かる者という意味です。
なるほど、人の心証を害しながら平静でいられる人間はそうはいません。これを何というか。ヒューマニズムというのであります。
思うに、ヒューマニズムには常識はあるかもしれませんが覚悟がありません。世間の言うとおりのことをしていれば世間はすぐに認めてくれますよ。
けれども、自分の心には蓋(ふた)がされています。生き生きとした生涯を送ることはできません。まあ、人と違っていてもいいと思うのはなかなか難しいことではあります。
ここでひとつ読者諸賢に質問をしてみたいのですが、では、そもそも、なぜ人と同じではいけないのでしょうか。
キリスト者はこの罪の世界で世の光、地の塩とならなくてはいけません。こういう使命を持っているので自ずと他人と異なるようになっていきます。
一方、さような使命を持っていないなら世間の常識に従って生きるのが無難でよろしい、ということになりませんか。人と同じでいい、という具合になりませんか。
ヒューマニズムに覚悟がないゆえんです。わたしは父がキリスト教会の牧師でしたから学生時代は辛いことも少なからずありました。キリスト者は何処にいようと目立つのです。
日本人は他の人と違うということを極端に嫌がる国民性を持っています。そして周囲の人間に同調圧力をかけてくる。人と同じでなければ迫害されます(大仰な表現ではない)。
振り返って考えると、そういう辛い学校時代の経験を経てキリスト者としての覚悟が涵養(かんよう)されていったのではないか。
これも、いわゆる宗教2世の問題のひとつかも知れませんね。わたしは父がキリスト教会の牧師でしたので宗教2世の問題が痛いほどよく分かります。だからといって棄教(ききょう)しようと思ったことは一度もありません。
わたしはキリスト者(「クリスチャン」という言い方のほうが人口に膾炙していますね)としての考えや生き方で世間の同調圧力に屈することなく巷間の人々との差別化を図りたい、と願っています。