尾崎豊
尾崎豊の歌は今でもわれわれ中年オヤジの心の琴線に触れてきます。人として忘れてはならない大切なものを想起させますし、そのメッセージに心から共感できるからです。
いわゆる“オザキ”の曲はメロディーの美しさもさることながら歌詞の内容がとてもいい。非常に純粋であたかも心に付着した垢(あか)が洗い清められるようです。
ばかな話だ。
世の中はそんなものじゃ無いんだ。
この世で暮らして行くからには、どうしても誰かに、ぺこぺこ頭を下げなければいけないのだし、そうして歩一歩、苦労して人を抑えてゆくより他に仕様がないのだ。
出典:太宰治『駆け込み訴え』
上記の引用は、あの太宰治が聖書に取材した傑作短編『駈込み訴え』の中でキリストを裏切った弟子のユダにモノローグをさせたくだりです。
思うに、われわれには二通りの生き方しか許されていません。ユダの処世術を肯定するか“オザキ”の理想主義を追求するか、です。
とまれ、ここまで徹底的に卑屈なモノローグを読むと現実の自分の卑屈さを距離をおいて考察することができるので不愉快にならずに内省へと促されます。太宰の表現が随所で読者に配慮していることの一例をここに見ることができます。
お金を得るためにあくせくするサラリーマン。リストラの恐怖に怯(おび)え、心身を磨り減らしている会社員。むろん、わたしとて例外たり得ません。以上の人々に“オザキ”は「ダンスホール」の最後でこう歌いかけます。
あくせくする毎日に 疲れたんだね
出典:尾崎豊「ダンスホール」
俺の胸で眠るがいい
そうさおまえは孤独なダンサー
もう三十年以上も前の歌なのになぜ、わたしの胸をこんなにも激しく打つのでしょう。わたしは甘美な青春時代を思い出し、いたずらに感傷的になっているのでしょうか。
思うに、われわれはユダが独白したとおり、ぺこぺこ頭を下げているのではありませんか。お金に…。お金という偶像“マモン”に頭(こうべ)を垂れているのでありますまいか。
命を削って、そんなにまで懸命に働いていったい何のためにお金を得るのでしょうか。生きるためにお金を稼ぐのか、お金を稼ぐために生きるのか。
古くからあるこの命題にあなたは何と答えるでしょうか。われわれは以上の命題に対する答えを自分の人生の中で実証していかなければならないでしょう。