思想と年齢(2)

運動の秋、読書の秋、勉強の秋。

合理主義思想は先輩、後輩の区別など何とも思っていないのであります。昨今、台頭して来ているアンチエイジングという思想は合理主義の思想をバックボーンとしているので年齢というものを軽蔑するのです。

アンチエイジングの信奉者は加齢というものを極端に嫌います。彼らはoldを認めずyoungにしか価値を認めていないのです。

彼らの精神は齢をとりたくない、という歪んだ価値観に一様に染め抜かれている、と述べても一向に差し支えないと思います。

しかしながら、加齢を好むと好まざるとにかかわらず思想というものは、もともと年齢と深い関係があります。年を取らなければ判らない、ということが人生には無数に存在します。

それは吾人のこれまでの経験に照らしても納得できます。たとえば『論語』には「四十にして惑わず」と記されています。

ある程度、人生経験を積んで四十代になってみると果たしてこの言葉は真実である、と納得できるようになるのです。

二十代や三十代では「四十にして惑わず」という言葉の真意をまだまだ悟ることは難しく十分に納得することはできないのであります。

不思議な年齢の秘密について『論語』が現代を生きるわれわれに提供してくれている知恵は全然、古くないことが理解できます。

むしろ人生の機微に鋭敏な人にとって『論語』の言葉は日々いよいよ新しい、ということが言えるのではありますまいか。

風貌(ふうぼう)についても同じことが言えると思います。我々の顔とか姿というものにもその人なりの何とも言えない深い人生の実相が刻み込まれているのではありますまいか。

そうであるならば吾人は、いたずらにそれを忌避(きひ)すべきではなく、むしろ歓迎すべきではないでしょうか。

「いつまでもお若いですね」などと言われて、へらへらと、脂下(やにさ)がっていてはいけないのであります。

お世辞を言っている相手は「お若いですね」と言いつつ心のなかでは「精神年齢的にはね」と但し書きを付けて、こっそり舌を出していないとも限りません。

吾人は赤ん坊として出生して老人になり遂には死を迎えます。思うに我々は齢を加えるにつれて、その抱いている思想が深まってゆかなければなりません。

わたしのように中年ならば、中年らしく青年には、まだ持つことができないようなその年齢にふさわしい人生観を持ったうえで毎日を過ごすべきであります。

(つづく)

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