思想と年齢(6)

聖書は難解ではなく、生と死を考えるための普遍的な古典です。連載第6回。

教会に行って牧師の語る聖書の説き明かしを聞く、というわたしの提案にどうしても心理的な抵抗を感じるのであれば、せめてご自分で『聖書』を読んでみてはいかがでしょうか。

生きることに悩んだり、その先にある死について備えたい、と真剣に考えたり、する時に昔の人の叡智が結集している古典を読む、という必然性が生まれるのであります。

読者諸賢は『聖書』という古典を一度でもいいから読んだことがありますか。聖書とはどういう書物か説明できますか。

原罪とは何ですか。新生とは何ですか。使徒とは何ですか。聖霊とは何ですか。いわゆる精霊とは異なりますよ。知らないでしょう。

獄死した哲学者たる三木清が著した名著『人生論ノート』の「個性について」という章の冒頭部分には何の説明もなく「バールの僧侶」という言葉が当たり前のように出て来ます。

では、「バールの僧侶」とは誰のことを指すのですか。ピンと来ないでしょう。『聖書』を知らないからです。これではいけません。

世界の大古典を読まないというのは知的な怠慢である、とわたしは躊躇(ためら)うことなく指摘しておきたいです。

さはさりながら、以上のように述べただけだと『聖書』を読んでいない読者諸賢に対して不親切で配慮に欠けることとなります。

急いで指摘しておきたいのは『聖書』は難解で晦渋(かいじゅう)な書物ではない、ということです。さように思い込んで、しり込みする必要はありません。

世界中の老若男女が読んで来た書物であり、現在も読まれており、将来にわたっても読まれて行く書物です。『聖書』が難しい、という先入観もやはり『聖書』を知らないことに起因します。

死後について書かれている本を読む、というのは死後について考える際に最も賢い選択のひとつである、とわたし考えます。

ただ、誤解のないように申し添えますが死後について記されている本であれば何でもいい、と主張しているわけではありません。

たとえば死後について間違ったことが書かれているのであれば、その本によって益を受けるよりは損害を受けてしまいます。(つづく)

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