思想的怠慢(2)

画像は和歌山県の潮岬近くの道の駅です。昨夏の南紀白浜ツーリングの際の一コマ。

知性的に水準以上の立派なインテリでもその程度なのです。ですからインテリのなかにさえキリスト教について造詣が深い人を見つけるのは容易ではありません。

雨の日の空に星を探すようなものです。インテリがそんな体たらくでは一般の人たちにはなおさら期待できません。

インテリか否かにかかわらず、いわゆる無神論者で聖書を読んでいる人など極々わずかでしょう。

しかし、これは思想的な怠慢なのではありますまいか。「果たして死後の世界はあるのか」とか「なぜ、世の中に争いや悲惨が絶えないのか」とかいう人生の大問題は太古の昔から変わらずあります。

さような大問題は自分で考えたって到底わかるものではありません。そういうときに古典を読んで対策を講じなければなりません。

何もせずに静観しているならば怠けている、と謗(そし)られても当然でしょう。問題が出来(しゅったい)したら知恵のある先達の意見に虚心坦懐に耳を傾けるべきです。

ソクラテスならソクラテスでもいい。「人間は考える葦である」という有名な言葉を記しているパスカルでもいい。

むろん、聖書ならもっといい。なぜ、そういう人類の叡智、神の智恵を参照しないのでしょうか。そういう古典を読めばちゃんと人生の指針が書いてあるのです。

「少しのことにも、先達はあらまほしきことなり」と、あの兼好法師も書いています。

もしかしたら「日本人だから西洋思想は関係ない」という人がいるかも知れません。けれども、さような物言いは短慮であり何よりも勿体ない。

いい書物は洋の東西を問わずいいのです。古典は人類共通の財産です。そこには東洋人、西洋人の区別はない。でも一歩譲って仮にその言葉を肯定しましょうか。

そうであるとするならば、君は西洋思想の代表格である聖書にじかにあたったことはあるのか、と訊(たず)ねたいです。

そのうえで宗教は駄目なのだ、と評するならまだ納得できますが、ろくすっぽ「福音書」も読まない「経文」も読まないで宗教を否定する、というのはいかがな了見か。

さような姿勢を思想的怠慢であり不誠実だと言われても反論できますまい。その宗教の教典を読まずしてどうして、その宗教を軽々に批判できるでしょうか。

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