文章論

私は『日本語のために』を文庫本で読みました。日本語について考えさせられます。

以下に丸谷才一が著した『日本語のために』から話し言葉と書き言葉について丸谷が主張している文章を引用します。少々、長くなりますが、ご容赦ください。改行は適宜、引用者が施しました。

かうして人々は、おしやべりをするときと同じ調子でだらだら書くやうになった。(ぼくは今、佐藤春夫の有名な「しやべるやうに書け」といふ説を非難してゐるのではない。佐藤はもつとずつと高級な文章技術について語つたのである。)

しかし、人々がどんなにだらしない文章を書かうと、彼らが漠然と理解した口語文のたてまへから言へば、会話は文書の規範であり基準であるのだから、それでいつこう差支へないわけであつた。むしろそれは、極めて正しいことであつたとさへ言ひ得るかもしれない。

だが、このことはまた逆に会話の言葉に重大な影響を及ぼしたやうである。つまり、文章の言葉は会話の言葉を、規正も醇化もしなかった。

本来ならば、会話は文章に荒々しい生命を与へ、文章は会話に秩序と優雅とを贈るべきはずのものであらう。ちようど、地方と首都との関係のやうに。

あるいはまた、生活と藝術との関係のやうに。だが、そのやうな相互的な、あるいは可逆的な関係は、現代日本文明には存在しなかつた。

現代の日本語は話言葉による専制的な支配の政体である。そこでは文章が会話に屈従し屈服してゐる。


(中略)

現代日本が、型ないし形を軽蔑し無視する文明であつたといふことである。さう、そのやうなものがもし文明の名に値するものならば。

出典:丸谷才一著『日本語のために』


以上の引用は前掲書の「未来の日本語のために」と題した日本語論です。およそ二十頁に亘り丸谷の論が展開されています。興味のある方は是非ご一読ください。

きちんとした書き言葉で書くためにはやはり十分に考えて書き、何回も推敲を重ねた方がよいと思います。思うに推敲できるところが書き言葉の強みです。

思いついたままをだらだら書くのは日本語の混乱に一役買っていることになる、とさえわたしは思うのですが読者諸賢のお考えは如何に。

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