映画について
現代人は確実に心が渇いています。心が幸せで充満していたら人は映画館まで足を運ぶことはしないでしょう。
現代流の娯楽というものに、わたしは甚だ懐疑的な目を向けています。常日頃、心が幸せでないので何処かに刺戟を求めるのではありますまいか。
しかし、まあ、これは理想論です。厳しい現実を顧慮するならば息抜きが必要で、その息抜きが映画であっても責められるべきではないかも知れない。
カップルで映画鑑賞などしているのを見たならば目を細めて微笑みながらやり過ごさなければならないかも知れません(笑)。
これはいささか理解がありすぎかも知れません。ともかくも映画鑑賞そのものは犯罪的でもないし、暴力的でもありません。実に平和な営みです。
そうは思うもののやはり、わたしは考えてしまいます。映画は作られたもの、出来上がったもの、の鑑賞です。極めて受身的な姿勢です。
そういう点はテレビを観る時の姿勢と酷似していると言い得る。わたしはテレビには不寛容なので映画にも厳しい眼差しを向けたくなります。
しかし、映画はテレビと違い、ひとつの作品として完結しています。映画が終わったのに何時までもぐずぐず映画館に留まっている人はいません。そこにけじめがあると思います。
自分で選択した作品を観るという点に映画視聴者の自律性を感じます。それが映画の良いところだと思います。時間の枠があってその範囲内で観るという点もいい。
さらに言えば、お金を支払うという点もいい。両方の制約によりだらだら観ずに済みます。そして両方の制約があればこそ客は映画を漫然と観ずに真剣に鑑賞しようと努めますから。
そういう次第でテレビとは異なり感動する度合いも高まるとは思いますし、そこはわたしも評価するにやぶさかではありません。
しかし、現代は騒々しい映画が多いですね。しかも血なまぐさい。そうでなければ甘ったるい恋愛ものではないですか。人を内省へとは向けませんね。
考えることを促さないで、ひたすら欲望を刺戟します。現在のショービジネスは商業主義の名の下でやっていいこととやっていけないことの判別が出来なくなってしまっています。
否、金儲けのためなら何でもアリというのが現在のショービジネスの実態ではないでしょうか。わたしは映画を愛しながらも商業主義を憎みます。
映画がこれ以上、堕落しないように早急に手を打つべきですが改革を断行しなければならないのは商業主義からだと思います。