書評『ネットカフェ難民と貧困ニッポン』前編

■はじめに

近年、「貧困」という言葉がニュースやSNSでしきりに取り上げられるようになりました。しかし、その実態をどれほどの人が自分の問題として想像できているでしょうか。

本書『ネットカフェ難民と貧困ニッポン』は都内のネットカフェを転々としながら生きる人々の姿を通して貧困とは何か、自己責任とは何か、を鋭く問いかける一冊です。

当該書籍の書評を当ブログで二回に分けて発表したいと思います。今回は、その書評の前編をお届けします。

■ 貧困が生む凄絶な後悔

「もし、ここから這い上がれるチャンスが与えられたら、もう二度と転落しないようにします。絶対に…」

『ネットカフェ難民と貧困ニッポン』より引用

強い断定の言葉が挿入されている。すなわち、「二度と」、「絶対に…」。暖衣飽食の国・日本で生きていながら経済的に「貧困」である、というのはかくも凄絶な後悔を惹起(じゃっき)させるのである。

「貧困」は昨今の社会的なキーワードである<自己責任>と概念上、密接に絡まり合い、貧しい暮らしをしている本人の怠惰あるいは処世上の智恵のなさ、偏頗(へんぱ)な性格等々の所為(せい)にされる。

そして当の本人も「貧困」は<自己責任>ゆえの担わなければならない自らの十字架であるとし自己を激しく責めるのである。

資本主義体制下の日本でお金がない、ということは罪悪ですらある。それゆえに、お金がないという事実は貧困者に過酷な重圧としてのしかかる。自らの十字架になると述べるゆえんだ。

■ 「ネットカフェ難民」という名の由来
本書は都内のネットカフェを渡り歩いて一日いちにちを口を糊(のり)して暮らしている、いわゆるホームレスを取材している書である。

ジャーナリストである著者水鳥宏明氏はネットカフェの住人たち「ネットカフェ難民」と命名する。その理由はこうだ。

すなわち、政治上の問題つまり国内の圧政、国外の戦争などにより食べる物にさえ窮している民度の低い諸外国に散見される難民の姿と二重写しになり「ネットカフェ難民」と命名したのだ。

■ 普通の暮らしが叶わないという現実

本書は普通の暮らしを切望するが結局、叶わない人たちの哀しい記録の書でもある。われわれには食べる物があるし、寝る場所もある。病気になれば病院へ行き薬を処方してもらえる。

しかし、哀しいかな日本では、さようなサービスを受けるためにはある一つの条件を充たすことが必須となる。その必須条件とはお金に他ならない。

ということは逆も真なりで、お金がなければ、食べる物もままならず、寝る場所さえなく、たとえ、病気になったとしても病院へ行けず薬さえ処方してもらえないのだ。

お金を得るためには仕事をしなければならない。子供でも解る理屈だ。われわれは日々あくせく働いているが、そうすることと引き換えに収入を得ているのである。

けれども、「ネットカフェ難民」には定まった職さえない。定職があるということは、どれだけ感謝するべきことか。 定職がない、ということはどれほど不幸なことか。

本書が執筆された動機、あるいは眼目はこの表裏一体のテーゼ(命題)を読者に問い、各人が、想像を逞(たくま)しくして、このテーゼと向き合うためにある、と断じても間違いではあるまい。(つづく)


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