書評『ホームレス作家』
今回の記事では松井計の『ホームレス作家』(幻冬舎刊)という本をご案内したいと思います。随分以前に出版された本ですがベストセラーにもなっています。
同書はホームレスという、とても哀しく非常に辛い境遇に追い込まれた現役の作家の足跡を自らたどった極めて上質のノンフィクション作品です。
当該書籍は著者の身に実際に出来(しゅったい)した容赦のない厳しい事実の克明な記録であります。
同書はそのいかんともし難い苦しい現実に呻吟(しんぎん)している著者の息遣いまでもが聞こえてきそうなほど迫力に満ちています。読み手を飽きさせない工夫が随所にちりばめられています。
思うに、いやしくもプロの作家であるなら砂を噛むような文章を読者に提供してはなりません。さりとて読者に迎合して自分の主張を曲げるようなことがあってもならないと思います。
これは読者に阿(おもね)らずかつ読者サービスをせよ、という二律背反する命題ですが、この命題の要件を十分、充たせて、はじめて読者は自分の懐(ふところ)から貴重なお金を支払ってまで本を読むのです。
その点『ホームレス作家』の松井計は心得たもので読み手は強い磁力を持つ優れた文章によりこの悪夢のような物語に引きずり込まれていきます。
ひとときの間、松井の直面した苛酷な現実と対峙(たいじ)させられるのです。換言すれば読者は作者の追体験をさせられるのです。
それにしても、妻子を公的機関に預けて独り夜の街を彷徨(ほうこう)しなければならなかった松井の心境はいかばかりであったでしょうか。
松井夫婦の両親はいずれも、すでに他界していて頼れるのは友人、知人のみです。友人、知人に返すあてのないお金を無心するのです。お互いの関係が悪くなるのは必至です。
しかし、生きていくためにはそんなことに頓着(とんちゃく)していられません。生きるか死ぬか、その瀬戸際で関係悪化を承知のうえで借りるのです。命を繋(つな)ぐために。再び妻子と平穏に暮す希望を持ちながら。
著者松井が東京の街を彷徨していた時季は真冬です。凍死の懼(おそ)れもあり酒を嗜好品としてではなく、身体を温める実用品として飲むくだりもあります。
現実は実に苛酷です。その日の食事、塒(ねぐら)の確保に必死にならなければならない辛さと情けなさ。それが包み隠されることなく極めて赤裸々に記されています。
人生は甘くないと誰も言います。わたしも誰も言う以上のことは言えません。しかしながら、人生を歩んでいく際、心ならず道の途中に口をあけた陥穽に落ち、そこから必死で這い上がろうと足掻(あが)いている無数の人たちがいることは忘れたくないものです。
松井のくだんの本を読むとそのことに思いを致すよい契機になるはずです。ホームレスは決してわたしたちと無関係な話ではありません。