本当の学問
昔の人々は学問のことを「道」と呼んでいたそうです。人生いかに生きるべきか、人生とはなんぞや、ということが「道」の研究対象でした。
それゆえに「道」を教える先生は生徒からの「どのように生きればいいでしょうか」という質問に明確に答えられねばなりませんでした。
翻って令和の世に生きるわれわれのする学問とはなんでしょうか。人生を生きてゆくためにそれほど必要とは思われないようなことが学問研究の対象となってはいないでしょうか。
したがって現代に生きる先生に人生のことを訊ねても一笑に付され「そんなことよりも次のテストの点数をもっと上げろ」と言われかねない。今の先生は人生の真理を教えてくれないのです。
実際に学校の先生からそう言われた人がいるそうです。その人は女学生の時に人生の意味について先生に訊ねたのですが、はぐらかされて答えをもらえずに絶望して鉄道自殺を試みました。
手足を切断されてしまったのですが命は助かりました。紆余曲折を経てキリストと出会い、キリスト者として天国に凱旋(がいせん)されました。
本当の学問とは学問によって、その人が携わっている仕事が上手くいく、という性質のものです。その人と関わる人たちと良好な人間関係を築ける、という性質のものです。
それは取りも直さず自分の使命に気づける、ということに他なりません。現代は学問をしたから出世する、というありさまです。現代の学問は堕落していますね。いわゆる成功とかたく結びついています。
現代人は成功と幸福を同義に見ています。そうなると必然的に出世して、どれだけお金を稼げるか、という問題になります。
わたしが思うに幸福は成功という量的なものではありません。成功とはなんの関係もない質的なものです。
学問を「道」と呼んでいた大昔、皆、向学心に燃えていました。よりよく生きたい、と強く願ったのです。
それゆえに「人生とはなんぞや」という疑問がいったん生じると、その探求心は非常に熱烈なものとなり生涯、消えなかったのです。誰もなんにも教えてくれませんからね。
ですから例えば京都に真理を教えてくれる先生がいると判ったら百里を遠し、としないで仁斎の許に行ったのです。
思うに勉強はわれわれの本能です。権利です。本能でなくなったのは現代くらいのものではないですか。黙っていても教えてもらえますからね。
ご承知のとおり今の日本には義務教育などという制度があり子供たちは、しぶしぶ勉強しているありさまです。昔とは大変な違いであります。