読めて、書けて、受かる中学受験専門国語塾。
TEL 052-918-2779
営業時間:14:50-22:10
一昨晩、キリスト者であり医師だった日野原重明氏が著した『死をどう生きたか』(中公新書)を読んでいた。
以下は同書に記されていた16歳の少女の言葉である。戦前のことだ。少女は紡績工場で女工として働いているうちに肺の病を患った。当時、結核は特効薬もなく、死に至る病であった。
「先生、どうも長いあいだお世話になりました。日曜日にも先生にきていただいてすみません。でも今日は、すっかりくたびれてしまいました」
「私は、もうこれで死んでゆくような気がします。お母さんには会えないと思います」
「先生、お母さんには心配をかけつづけで、申し訳なく思っていますので、先生からお母さんに、よろしくお伝えください」
少女は自分の死期を悟っていた。16歳といえば今の高校1年生だ。自分の身に迫る死の恐怖は勿論あったはずだ。思うに死というものは今存在している自分への全否定である。
そうであってなお、少女は死を静かに受け容れた。花も恥じらう若き乙女。青春を味わうことなく早々に彼岸へ旅立っていった。おお、彼女は結婚すらしていない。
わたしは失業していた時期に地元の駅のコンコースでアンケートのアルバイトをしていた。当時、意地悪な女性ふたり組から至近距離で悪口を言われたことがある。
わたしは耐えかねて別の場所で通行人に声をかけていた。あの時、わたしは初めて存在を否定される痛みを文字どおり体験した。身を以て生の痛みと死の棘は地続きだったことが理解できた。
ことほどさように自分を否定されることは辛い。ましてや死は自分の存在に対する全否定であり、誰も避けることができない。われわれは生きているうちに必ず死に備えなければならない。
冒頭の少女は静かに死を受け容れた。死に解決はある。―それがキリスト教の信仰だ。たしかに死は人間の存在に対する絶対的な否定かも知れない。しかし、永遠の命がある、と聖書は教える。
YouTubeを視聴していたら二十歳代のうら若い女性が癌に罹患していて動画のなかで「死にたくない」と泣いていた。わたしにはこの女性の気持ちが少し分かるような気がする。
死の解決がなければ死は人間に絶望をもたらす。取り乱すのも道理だ。しかし、わたしはあえて言おう。死には解決がある、死を乗り越えた先に永遠の世界がある、と。
現世のことだけを考えると宗教は滑稽で馬鹿げている。そして危うさを孕んでいる。だが、現世での最後のイベントである死を乗り越えるために信仰は必要だ。信仰なしに最期を迎えるとしたら、それは悲劇だ。
哲学者であった三木清氏は『人生論ノート』のなかで次のような注目すべき言葉を語っている。
この世で得られないものを死後において期待する人は宗教的といはれる。これがカントの神の存在の證明の要約である。
16歳の少女のように、われわれは従容と自分の最期を迎えることができるだろうか。キリスト者であり作家でもあった三浦綾子氏は晩年「死という大きな仕事が待っている」と述べていた。
死に臨んだ際に学歴は何の役にも立たない。財産も然り。読者諸賢よ、子どもを塾へ通わせている場合ではないかも知れない。
死の解決は何処にあるか。聖書にある、キリスト教の信仰にある、というのがわたしの信仰告白である。
この短い生涯を終えて神の御許に召される時、狼狽えないようにしたい、と思う。わたしは最期の時この困難の多かった世を振り返ることなく、さよならは言わずに逝くつもりだ。
コメント