読めて、書けて、受かる中学受験専門国語塾。
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先般、12年振りに実家に近い小料理屋で昼食をとる機会があった。店のお勧めメニューを頼んだのだが見た目が整っていないことに気がついた。食べてみると不味くはないが美味くもない。
実際に口の中に入れて咀嚼(そしゃく)していると何だか微妙な味なのだ。見た目からしておそらくそうであろうな、というわたしの予感は残念なことに的中してしまった。
一言で評すれば料理を拵(こしら)えた人の気持ちがこもっていないのだ。気持ちがこもっていない、というのはこういうことか、と妙な実感を覚えた。
無理もない、といえば言える。高齢のおばあさんが営んでいる小料理屋なのだ。わたしは腹も立たなかったし、その店を舌鋒(ぜっぽう)鋭く非難するつもりもない。
そこに老いの残酷さを如実に、そしてリアルに、見た気がした。愕然とした。大仰でなく戦慄を覚えた。読者諸賢よ、ことほどさように熱情を抱けなくなる日がいつの日かやってくるのだ。
老いはひたひたと背後から到来し気づかぬうちに潮は身の丈まで満ちている、というのが人生の真相かも知れない。3人称の老いが2人称、1人称の順にひたひたと背後から確実にわれわれに到来する。
そして世界はガラガラと崩壊する。これは死ぬ、ということの哲学的な表現だ。読者諸賢よ、次の世はあるのだよ。宗教を侮蔑する人々には憫笑(びんしょう)して、こうお尋ねしたい。
「あなたには死の解決がありますか」と。「死ぬのは怖くありませんか」と。これに否、と即答できる人はそう多くはいまい。開明的な人であっても答えられないに決まっているのだ。
古今東西の老若男女の殆んどが遂に死の恐怖を、否、死そのものを、乗り越えられなかった、というのは言い過ぎではないはずだ。
だから、わたしは立派な信仰を持って殉教していったキリシタンに心より敬服する。読者諸賢よ、岩波文庫の『日本切支丹宗門史』を是非、読んでほしい。涙なしには読めない奇跡の歴史書だ。
幼い子どもでも勇敢に死地に赴いた。年端の行かない少年少女も信仰を持っていると屈強な武士たちより余程、勇気があるし、その振る舞いを心より尊敬できる。われわれキリシタンの末裔は猛省すべきだ。
わたしは自分が恥ずかしい。自己中心の自分が恥ずかしい。受験の話を抜きにしても子どもは可能性の塊(かたまり)であることは、かように歴史書にも証明されている、と言い得る。
わたしらの提供している教育サービスは気持ちがこもらなくなったら即、辞めるべきだと思う。即刻、店を畳んだ方がいい。そして死ぬ、という大事業のみに正面から向き合ったらいい。

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