無限で無窮の心を目指して教えるべき

若い頃というのは精神は未熟だが肉体は成熟していて見栄えがいい。わたしが思うに女優は若い頃の自分の魅力が終生、忘れられない人種だ。女優の宮沢りえは、われわれの世代のアイドルだ。若い頃は美しかった。裸の写真集が物議を醸したこともある。

いったい自分の美点に気づいていない人間というのはいない。美しくてしかもそれを意識していない人ほど魅力的な人物がこの世にいるだろうか。いや、いない。けれども今の時代、美貌の持ち主は持て囃され、甘やかされ、早々に結婚して、早々に離婚する。

われわれは産声を上げたときから老いが始まっている。容色はいずれ衰える。外観は徐々に朽ちていく。だが、心はいつまでも成長を止めない。教師は生徒諸君の物質的に有限な頭脳ではなくて、無限で無窮の心を目指して教えるべきではないか。

けれども、今の学校ではそれはできない。入学試験に受かることも大事なことかも知れないが、もう少し教育の方向をわれわれは考えるべきではないか。わたしは繰り返し述べたい。量ではなく質だ。物質ではなくて精神こそ大事だ。

いつからか学校は測れるものしか扱えなくなってしまった。テストでマルバツをつけて点数を出す。しかし、精神は測れない。むしろ、精神は測られることを拒んでいる。測られたくない、と言っている。あなたの悲しみは計測できるか。愚問である。精神と計測は矛盾した概念である。

そもそも教育とは測れないものを扱う営みであるはずだ。肉体は衰える。若さは消える。成績は変動する。偏差値は揺れる。合格実績は時代で変わる。けれども、精神の尊厳だけは動かない。誰にも奪えない。

わたしは今の時代に教会の日曜学校が果たす役割の大きさを思う。だが日曜学校の現状はといえば閑古鳥が鳴いている。慄然とする。わたしは今は教会に通っていない。しかし、教会の存在意義を認めるものだ。教会の日曜学校の存在意義を大いに認めるものだ。

わたしは幼い頃から日曜学校に通った。雨の日も風の日も。子どもたちは欠伸をしていたり、時に喧嘩もしたりしたが、教室の雰囲気は温かかった。日曜学校では点数を付けなかった。評価を恐れる心配も無用だった。父は教会の牧師であり、日曜学校の校長でもあった。

父は後年、わたしが塾で働き出すと「生徒一人一人のために祈っているか」と尋ねた。父は確かに祈っていたのだ。日曜学校の子どもたち一人ひとりを覚え、名前を呼び、顔を思い浮かべ、その子の人生のために真剣に祈った。父の祈りは神に届いていたのか。神はご存知である。

幼い魂には優しく語りかけねばならない。人間の魅力ではなく神の魅力を。ヒューマニズムの限界を。人生は神中心主義であるべきであって人間中心主義ではないことを。人生に凪の時間はそう多くないことを。ほとんどが曇りの日々であることを。

大人は見誤っている。子どもだって大変だ。苦しいのだ。人知れず悩んで、それでも前を向いて歩いているのだ。歯を食いしばって呻吟しながら。わたしは学校へ通うのが苦痛で仕方なかったあの頃を明瞭に思い出す。そのうえ重荷を載せるな。

子どもを虐待するな。性の対象として見るな。お金をもたらすお客として考えるな。子どもは商品ではない。数字ではない。顧客ではない。子どもは、神が愛するただひとりの大切な魂である。

広大無辺な彼らの魂を目指してわれわれ塾講師は教育していかねばならない。それが、かつての松下村塾であり、適塾であり、鳴滝塾であり、古義堂ではなかったか。

AIにこれからの塾のあるべき姿を尋ねると、それは「思想」のある塾だという。今まで塾が担ってきた採点、解説、暗記チェック、プリント作成、学習計画、データ分析、情報整理はやがてAIが代替するだろう。実際、大手塾が模試の採点にAIを導入しているのは周知の事実である。

伊藤仁斎の古義堂では塾生は、お酒を飲み、ご馳走を食べながら『論語』の授業を聞いた、と言われている。さような点からしても現代の学習塾とはまるで違っている。

然り、塾は「思想」を持たねばならない。仁斎や吉田松陰、緒方洪庵らの塾は「思想」を持っていた。だから時代を変える偉人を多く輩出できた。われわれは原点回帰すべきだ。

我が塾はキリスト教主義の中学受験塾として営んでいく。さはさりながら生徒諸君に信仰を強要することはしない。むしろ教師であるわたしがキリストの精神に則って生徒諸君に教えていきたい。

むろん中学受験塾だから合格実績も蔑ろにはしない。キリスト教は、弱い者を弱いまま抱きしめる宗教である。わたし自身も弱さを抱えている人間である。だから、この精神を我が塾の根幹に据えたい、と思うのだ。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次