理想郷
村上春樹が著した『約束された場所で』を読み返していたら(塵ひとつ落ちていない強烈な理想郷)という言葉に目が留まりました。
現世で理想郷を現出させようと努めるのは無駄な努力以外の何物でもない、と思うのです。理想郷を作ろうとしたソビエト連邦は崩壊し、北朝鮮は理想郷どころかこの世の地獄です。
もう少し小さな単位で考えてもいいでしょう。家庭は理想郷でしょうか。自分の家庭に思いを致し、果たして胸を張って理想の家庭です、といえる家庭がどれだけあるでしょうか。
では、さらに世界を絞って最小単位の自分を顧みるとどうか。自分は自分に満足しているでしょうか。わたしの場合、問題、課題だらけですね。
思うに、どの単位の世界であれ、生きている限り問題、課題はなくなりません。問題、課題がなくなった時、われわれは、この世の住人ではなくなっています。
哲学者三木清はこんなことを述べています。
この世で得られないものを死後において期待する人は宗教的といわれる。これがカントの神の存在の証明の要約である。
出典:三木清著『人生論ノート』
この大胆極まる要約の見事さ。あの小林秀雄ですら感心したといいますから凡百(ぼんびゃく)の哲学者とは一線を画します。
この世でユートピアなど造れやしません。何といっても人間は罪人ですから。どのような高邁な理想であっても完璧な計画であっても畢竟(ひっきょう)、厄介な人間の手に委ねられるのです。
聖書は人間にそこまで期待していません。人間は愚かで弱い存在です。しかしながら何とでもなるようになれ、とこの世を等閑視することを勧めているわけでもない。
そういう次第で良い方向へ向うようキリスト者は精一杯努めます。しかし、この世以上に死後の世界も大切にします。
最後にこの世界は滅びるのです。自分が死ぬということは哲学的に表現すれば、この世が自分の前からなくなるということ、つまりこの世界が自分の眼前から滅びるとも言えるでしょう。
滅びるものではなく滅びない朽ちない真の宝を大事にせよ、と聖書は語ります。現世での宝は虫が食い、錆びが付き、盗人が取って行ってしまうことすらあるのです。