私が正仮名遣ひを尊重する訳(2)
正仮名遣ひは難しくないし何と言つても味わひがある。書くのも初めのうちこそ少々戸惑ふが文盲(もんもう)でもない限り誰にでも書ける。
正仮名遣ひは誰にでも読み書きできる仮名遣ひであることをここで改めて念押ししておきたい。
正仮名遣ひは書き言葉と話し言葉を画然と別ける働きがあると思ふ。正仮名遣ひで書かれてゐる文章を読むと一種の心地よい手応へを感じられるようになる。
それは慣れるほどに読者層を問はず誰であれ容易に気づける愉しみになる。あたかも新雪を踏みしだく快感に似てゐる。
そもそも現代仮名遣ひの根底にある書き言葉と話し言葉を一致させようとする考へ方、いはゆる言文一致の考へ方は厳密な意味で言へば無理があるのではないだらうか。
思ふに、残念ながら現在、使はれてゐる現代仮名遣ひは、この点で繕いやうのない綻びがある、と言はなければならない。
その論拠につひて記すと記事がくだくだしくなるので、またリクエストがあれば詳述してみたい。今回はわたしの言ふ現代仮名遣ひの綻びにつひては触れずに文章を進める。
正仮名遣ひを尊重する論拠として一番、肝腎なのは過去の永いあひだに亘つて人々が実際に使つて来たといふ動かしやうのない事実である。
それで間に合つてゐた。何か都合が悪かつたわけでも不具合が生じたわけでもないのだ。
ではなぜ国語改革を強引に進める必要があつたのか読者諸賢は訝(いぶか)しく思はれるだらう。至極もつともな疑問である。
さう、進める必要などなかつたのである。理由はない、といふのが読者が抱かれた疑義に対するわたしからの回答である。
強ひて言へば古人の使ふ仮名遣ひはもう古い、戦争に敗けたのを契機に思ひ切つて改めるべし、といふ理由にもならぬ理由だらうか。
かういふ現代の色眼鏡で昔を見る態度が事を誤らせたと言へるかもしれない。昔を見下す態度は常に事を誤らせる温床になつてきた、とわたしは思ふ。
以上、縷々(るる)述べたとほり正仮名遣ひには少なくない美点がある。なるほど今の時代に正仮名遣ひなど時代錯誤ではないか、といふ声もあるだらう。
けれども、わたしがこれまで述べてきたやうに正仮名遣ひには現代仮名遣ひに優つて多くの美点があることを、多くの日本人は見落としてゐると思ふ。そして、それをとても残念に思ふ。
わたしは正仮名遣ひが蔑ろにされて捨て措かれてゐる現状を余りにも惜しいと考へるし、くどいかも知れぬが正仮名遣ひには多くの美点があるがゆゑに正仮名遣ひを尊重するのである。(了)