私が正仮名遣ひを尊重する訳
今回の記事は旧仮名遣ひで書かうと思ふ。旧仮名遣ひを尊重する訳を書くのだから、さうするのが適当と思ふからである。
読者諸賢はひよつとしたら初めのうちは戸惑ふかもしれぬが、それも最初のうちだけである。
物の本によれば旧仮名遣ひで書かれた文章は小学生、それも低学年でも読めるさうだ。読者諸賢は予断を抱かずに安心して読んでいただきたい。
ご承知のやうに旧仮名遣ひは過去の仮名遣ひであるから言ひ換へれば歴史的仮名ひとも言ふ。そして本来の正統の仮名遣ひであるべきだ、と信ずる人は正仮名遣ひと言つてゐる。
では、以下にタイトルにあるとほりわたしが正仮名遣ひを尊重する訳を記してゆきたい。
わたしは元来、言葉といふのは歴史そのものであると考へる。われわれの先達が永いあひだ使つてきた伝統がある。
言葉は親から子へ、子から孫へと気の遠くなる継承につぐ継承により伝へられて来た表現手段である。
言はば先達の膏血に塗れた日本人の証しが日本語といふ言葉なのだ。したがつて言葉を扱ふには古典主義的態度を尊重するよりほかに仕方がないのである。
われわれが使ふ言葉とは日本の歴史そのものなのだから。それにもかかはらず終戦直後のどさくさに紛れて国語改革が断行された。
この改革と称する拙い施策により日本に古来からある伝統が蔑(ないがし)ろにされたのである。いや、これは随分、控へ目な言ひ方だらう。めちやくちやにされたのだ。
その結果が今日の日本の国語教育に無残な結果を齎(もたら)してゐる、とわたしは信ずる。
さう信じてわたしは古典主義が欠落してゐる今の日本にささやかではあるが古典主義の復権を主張したいのである。
古典主義の復権とは何か。それはとりもなほさず正仮名遣ひの復権である。たしかに正仮名遣ひは難しさうに思はれるかもしれぬ。
しかし今でも文学全集を読もうと思へば正仮名遣ひに向き合ふほかないが読めないと文句を言ふ人をわたしは寡聞(かぶん)にして知らない。
このことは正仮名遣ひは読むに際して何も障碍になるものはない、といふよい証左ではないだらうか。
もう一度、繰り返して言ふ。ちやんと読めるのだ。正仮名遣ひは全然、難しくないといふことは、いくら強調しても強調し過ぎることはない。 つづく