自分、自分、自分
現代人は孤独が怖いのです。仲間が欲しいのです。そうして徒党を組んではスケープゴートを拵(こしら)えて攻撃するのです。いけないことです。いい意味での自己が不在なのであります。
独立独歩という言葉が今ではあまり使われなくなったのもむべなるかな、です。古色蒼然(こしょくそうぜん)とした趣(おもむき)の言葉になっています。
われわれは時には周囲の雑音を意識して排し、神のみ前に静まるひとときを持つべきではないでしょうか。
現代人はわずかな静寂にも耐えることができないようです。静かに内省することができないから軽薄な思想が幅をきかせているとも言い得る。
たとえば「勝ち組」「負け組」などという考え方がその典型でしょう。何という単純な二元論でしょうか。しかしながら、世人はこの思想の支配から自由ではないのです。
世の人々は「勝ち組」になろうと血相を変えて遮二無二(しゃにむに)がんばっている。いきおい殺伐とした世の中になる。
皆、自分が可愛いのです。自分と自分の家族さえ「勝ち組」であればいい。あとは「負け組」になろうとも一向に構わない。いっそ「負け組」になれ、と思っている。
自分、自分、自分の事に汲々(きゅうきゅう)としています。現代人は自分の利害の範囲内でしか他者と付き合うことをしません。淋しいかぎりです。
しかし思うに、ただ慨歎(がいたん)するばかりで手をこまねいていてはなりません。けだし打算的な世の中を変えるためには、われわれが意識を改めて動いていかなければならないからです。
自己を超越することが、いわゆる「魂の解放」です。これとは反対に自分の世界しか見えず他者に関心を持てないとしたら、それは「魂の牢獄」と言い得るのではないでしょうか。
たとえば道端に咲いている小さな花を愛(め)でる、という些細なことも外の世界に関心を向けるという点では意味のあることだと思います。
けれども、ほとんどの人は路傍(ろぼう)の花など見向きもせず、その代わりに腕時計を一瞥(いちべつ)して、せかせかと急ぎ足で通り過ぎていくのです。
たしかに現代社会で暮らしていると何かと忙しいし、仕事も甘いものではない、ということは十分、理解できます。
さはさりながら忙しくしていて大事なものを見もせず、考えもせず、遂に死の床に臥(ふ)せった時、自分の人生は一体何だったのか、と後悔することになったとしたら・・・。