遠い昔の受験を振り返ってみて~受験に関心のある読者諸賢のご参考に~ 

わたしは志望大学に入るために必死の努力をしたといえるであろう。机に噛(かじ)り付いて一辺倒に勉強した当時を想起するだけで息が詰まるような窮屈な気分になる。

あの頃には二度と戻りたくないというのが、わたしの偽らざる感想だ。一種のトラウマかも知れぬ。

余談だが、わたしよりも重大な症状が鋭角的に出ているのがPTSDを抱え持つ人々だろう。わたしには、その人たちの苦しさがほんの少し理解できるような気がする。

わたしは疲れて机に向かっているのが辛くなると部屋のベッドに寝転がり読書に逃避した。当時は幸いにもインターネットはまったく普及していなかった。

高校時代に評論家小林秀雄の『無常という事』(角川文庫)という本との邂逅(かいこう)があり爾来、わたしは小林秀雄の熱心な読者になって現在に至る。

高校時代に小林秀雄を皮切りに国内の作家では三木清や大江健三郎、海外ではカール・ヒルティ等を読み耽(ふけ)った。

これは、わたしの経験を記すのだが逃避して本を読んでいると結構、難しい本もそれなりに読めてしまうから不思議である。

もし満身創痍(まんしんそうい)の、あの血だるまの嵐の時代に一息つくことができる心の避難所がわたしにあったとすれば、それは読書の時間ではなかったか。

それを甘美な時間と強弁するとしたら、あまりにも淋しい青春だが読書の時間の他に愉快な時間を思い出すことができないのは事実である。

受験生時代、悪夢を見て汗びっしょりになって起きたことも二度や三度のことではない。受験勉強はかくも過酷なのだ。

大学側はわずかであれ ―それがたった1点の場合でさえ― 合格点に届いていなければ、あっさり落とす。容赦することなく落とす。

高校時代に、わたしよりも少し年長の青年がこう言っているのをふと耳にした。曰く「大学に入り卒業した人たちを俺は尊敬する」。わたしは、この言葉を忘れることができない。

それほどに大学入試は彼にとって越え難いハードルであったのだろう。実際、厳しい関門であることは大方の受験生にとって紛れもない事実であった。

当時も今も人気のある大学の受験突破は厳しい関門である。そして、もちろん当時のわたしにとって、それが例外たり得るはずはなかった。(つづく)

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