他人を自分の鏡とする、ということ

画像は当塾の玄関に貼り付けてある表札です。メルカリで作ってもらいました。

自己反省ということが、しきりに言われますね。けれども自己反省では決して自己を掴(つか)むことにはならない、と思います。自分を知るには他者が必要です。

他人を己の鏡としなければ自分という存在の謎を解明することはできません。歴史を学ぶというのも歴史に登場する他人をとおして自分が見えるから意味があるのです。

過去の自分も他人ですよ。過去はもうないのですから。過去は今、存在しないものです。しかし、われわれは過去の出来事を記憶していますから思い出すことはできます。

何度も言いますが大河ドラマを視聴したり、歴史小説の類(たぐい)を読んだり、することは歴史を知ることとは関係ありません。厳しい言い方をすれば、あんなものは歴史の捏造(ねつぞう)でしかない。

一体、坂本龍馬という大人物を何とかいう俳優がどう転んでも演じ切れるわけはない。それを解った上でエンターテインメントとして愉しむなら、わたしもとやかく言いません。

しかしながら時々あんなものを歴史と勘違いしている人がいます。絶対にそうではない。テレビで放映される大河ドラマの歴史は本当の歴史ではない。 

話を戻します。他人と付き合うのは簡単ですか。わたしは簡単ではないと思う。骨が折れることです。なぜなら他者と自分は全く異なるからです。

読者諸賢の顔とわたしの顔は同じでしょうか。読者諸賢の意見とわたしの意見は同じでしょうか。もし同じなら、わたしのブログをあえて読む必要はありません。

違うから記事を読むことに意義があるわけです。これは、わたしの思いついた勝手な意見ではありません。解剖学者の養老孟司氏も同じことを指摘しています。

他人と付き合う、さらに世間と付き合う、というのは思う以上にしんどい。だからこそ、われわれは立派に生きて来た年配者に敬意を払うべきなのです。

本を読むというのも他人である著者と十分、親しく付き合う、ということです。著者と対話する、ということです。ゆえに簡単なことではありません。骨が折れます。

価値がある本であれば、なおさら骨が折れます。わたしは古典的名著を読むときに特に強く、それを感じます。古典を読むのは、しごく疲れます。

けれども、さような苦労を重ねることで、ぼんやりと自分のことが徐々に分かってくるのではありますまいか。自分という厄介な存在から目を背けるべきではない。

茫漠(ぼうばく)と自己を分かろうとしても無駄な努力だと思います。そのためには世間で揉まれる必要がある。言い換えますと、やはり他人の存在が必要です。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次