静かな試練の秋に

秋の空は清々しいですね。当塾も生徒諸君にとって清々しい塾でありたい。

先日、秋の穏やかな早朝5時頃に寝床で、わたしのスマホが鳴りました。実家の母からでした。母によれば実家の父が倒れて病院に救急搬送されたとのこと。

目が醒めました。急遽、バイクに飛び乗り帰省しました。帰ると実家に父はいます。しかし、トイレに行く脚力がないのです。わたしと母とで支えるのですが埒があきません。また救急車を呼びました。

父は二回、救急車で運ばれています。わたしが帰省する前日に一遍、家へ戻っているのですが結局、わたしが帰省した日に改めて入院することになったのです。10月1日のことです。

父は先月25日に83歳になりました。思うに、父の年齢からすると何時、何があってもおかしくはありません。死が、いよいよ現実味を帯びてきました。

母を実家に残してわたしは手続きのため病院に再び行って朝から晩まで待合室で長く待ちました。それゆえ病院からその日の授業をお休みにする旨の電話を生徒宅に入れました。

わたしは遅れても授業をするつもりでしたが手続きが、まさか一日がかりになるとは思いませんでした。しかし、父も精一杯、頑張っている。わたしも煩雑な入院手続きに音を上げてはならないのです。

一方、塾でも残念なことがありました。実家から戻りメールをチェックすると、ひとりの生徒の退塾を知らされた次第です。思うに、どんな理由であれ別れは辛く淋しいものです。

しかし、別れがあるからこそ今いる塾生たちとの時間を大切にしよう、と固く決意できるのです。残っている塾生に今まで以上に真摯に向き合おうと強く思えるのです。

父との時間も塾生との時間も限りがあるからこそ本気で向き合いたい、と思います。そもそも人生が有限ではありませんか。めそめそしていてはいけない。感傷に浸っている余裕はありません。

教育とは知識を教えること以上に人と人との関係を築く営みだ、と改めて思います。 人との関係ということで記せば退塾という出来事はむろんそうですし父の入院という出来事もそうですね。

ふたつの出来事は、わたしに「今ここにいる人と、どう向き合うか」を問いかけてきます。 わたしは限られた時間をますます大切にしたい、と心より思うのです。

わたしは塾長として目の前の塾生に誠実に向き合い、これからも、ひとりの人間として静かに前を向いて歩んでいきます。歩みを止めてはいけないと思うのです。愚図愚図していてはいけないのです。

ふたつの試練は神さまからのプレゼントだと思えるといいのですが―実際に贈り物ですけれど―まだまだ信仰が足りない。教会の牧師であった父は天国へ行く準備を粛々としているだけなのです。

だから涙を見せてはいけないのです。辛く思ってはいけないのです。けれども、そうであってなお、わたしは泣きたい気持ちで一杯です。いいようもなく悲しいです。

それだからこそ当塾で預かっている受験生の涙も見たくない。神よ、どうかこの試練を乗り越えさせてください。

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