12年ぶりの再会~母教会の礼拝に出席してみて~

日曜日の早朝にバイクで地元へ向かっている途中に少し休憩。後ろは国道1号線。

昨日は12年ぶりに父が牧会していたキリスト教会の礼拝に出て来た。出席するに至るまでには細かい経緯があるのだが、おそらくスペースの都合上、全部を書くことはできないであろう。

なぜ12年も自分の父が牧会していた教会に行かなかったのか。もちろん理由はある。それは自分のプライドの問題だったと思う。自尊心が傷つけられた、と感じてずっと怒っていたのだ。恥ずかしい限りだ。

そういう意味で記すと会社に通うのは教会に通うよりは簡単だ、ということもできるのではないか。会社の場合、通勤しなくなれば収入はなくなり、ご飯が食べられなくなる。文字どおり死活問題だ。

したがって少々、嫌な事があっても受け流すことができる。仕事で自尊心云々をいうのはプロの態度ではない。だが教会の場合、休んでも路頭に迷う、ということにはならない。あくまでも出席は任意だ。

そういう次第で、わたしは教会から少なくない期間、足が遠のいていた。ここでいう父が牧会していた教会は地元の豊橋市にあり、今わたしは名古屋市に住んでいる。

昨日未明4時にバイクで平針を発ち夜が明けて明るくなった頃、豊橋市にある実家に着いた。当初は実家から父母を自動車に乗せてわたしが運転して教会に行くはずだった。

けれども父は自分が運転する、といって頑として聞かない。病み上がりだし事故でも起こしたら、という不安があった。結論を記すと父母は無事に教会に行って帰って来られた。

教会は温かかった。12年も顔を見せないで、いきなり礼拝に現れたわたしを歓待してくれた。しかし後から知ることになるが、わたしが教会に来るのは事前に知る人ぞ知る情報として受け取られていた。

そうであってなお教会の人々は優しかった。少なくとも実社会と比べると格段に居心地がいい。自分の居場所がある、と思える。昨日、バイクで教会から名古屋に戻るとき気分は上々であった。

もちろん教会はユートピアではない。気になった点はあった。少なからず。けれども教会は罪人の集まりである、とはよく言われることだ。それを言い出したら切りがない。

わたしが帰途に就く際に牧師とひとりの姉妹が手を振って送ってくれた。その気遣いが嬉しかった。わたしは住まいに戻って思案した結果、地元の豊橋にあるいわゆる母教会に今後も通おうと思えた。

アイツ、少し優しくしただけでホイホイ教会へ改めて通い始めたぞ。そう謗られるかも知れない。だが、教会員がたとえ上辺だけ優しくしたにしても昨日の歓待には騙され馬鹿にされてなお通う価値があった。

父母ももう80台だ。年老いた父母を安心させるためにも距離は遠いが母教会の礼拝にこれからも日曜日毎に出席しようと思う。今回も自尊心が傷つかなかった、といえば正直な告白とは言えないだろう。

しかし同じ失敗はしない。人生には限りがある、ということを今回の父の件で思い知ったからだ。12年ぶりの再会は、ただの礼拝以上だった。わたしが思うに、それは神の許に“帰る”ということだった。

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