思想と年齢(3)

この教室で年齢と思想が、ゆっくりと重なっていく。シリーズ第3回の記事。

各人が、それぞれの年齢に達しなければ抱けない人生観を持つべきなのです。中年には中年に、青年には青年に、ふさわしい考え方というものがあるはずです。

中年は中年らしく青年は青年らしく考えるべきだと思います。人生のそれぞれのステージにふさわしい考え方があるはずである、とわたしは考えています。

もういい歳をしているのに、いつまで経っても青年なみの考え方で止まっていては成長がなかった、ということになるはずです。

わたしは、すでに人生の折り返し地点を過ぎています。そうであるにもかかわらず、いつまでも青年らしいですね、と褒められて悪い気がしない、というのではいけません。

というのも悪い気がしないということになれば考え方において成長がなかったことを認めることになりますからね。

日本語に「円熟」という言葉がありますね。若いうちは、どうしても到達できない境地です。アンチエイジングという考え方は円熟という考え方とはどうしても相容れないのであります。

人生には年齢が進まなければ辿り着けないという段階があります。若いのに円熟している、というふうにはなれないのです。

したがって中年の思想には中年にならなければ表現できないような味わいがあるべきです。それでこそ齢を重ねて来た甲斐がある、というものです。

わたしもいい齢になりました。巷(ちまた)で流行している浅薄なアンチエイジングという時代の潮流を唯々諾々(いいだくだく)と追認するというのではいけません。

年輩者なら年輩者に丁度ぴったりな立派な思想を自分の内にぜひ宿らせていたいものです。その結果、時流に乗り遅れる、というのでも構わないではないですか。

自分自身のこれからの生き方が、アンチエイジングを標榜し擁護する人々とは対照的で、自然の摂理とは逆行する生き方に対する強烈なアンチテーゼになっているといいなあ、とも考えています。

吾人は時代のトレンドとなっている思想を簡単に追認するのではなくて十分に考えたうえで自らの立場を決定しなくてはなりません。

十分、考えたうえで時としては、その思想と対決しなくてはならない場合も出て来るでしょう。むしろ、そんな場合の方が多いかも知れません。

わたしは時代を風靡(ふうび)している考え方は常に疑ってかかるくらいが丁度いいと思っています。(つづく)

明日は、あえて更新をお休みします。少しだけ、このシリーズを咀嚼(そしゃく)する時間にしていただければ幸いに思います。


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