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わたしが、アンチエイジングという当世風の思想を歓迎できないいちばん肝腎なところを申しますと、それは、すなわち、死というものを真面目に考えようとしない不健全な姿勢にあります。
老若を問わず、男女の性別を問わず、貧富の別なく、能力の差にかかわらず、誰であれ吾人は必ず死に至ります。財産家だから死を免れるなどという馬鹿なことはありません。
死は公平に人を選ぶことなく皆に臨みます。それなのに、われわれは、なぜ死を避けるのでしょうか。なぜ死と真摯に取り組もうとしないのでしょうか。
それは著しく不自然なことではありますまいか。そして、不健全といわれても反論できないのではないでしょうか。
こうして思想と年齢の問題を論じて来て、いわゆる死の問題に至りました。死の問題を避けて思想と年齢という論点を有効に考えることは不可能です。
わたしは思想問題を扱うに際して年齢を論ずることは不可避であり、さらに死の問題を積極的に考える、という立場をとります。
なぜならば、誰彼例外なく年齢を重ねれば重ねるほど死に近づいていくわけですから死の問題は万人にとって切実で避けては通れない問題と言えるからです。
さらに申しますと、わたしは死の解決はある、と信じているからであります。人は死んで無くなるのではありません。魂は不滅であります。
古典中の古典である『聖書』が倦まず弛まず教えているとおり死の彼方(かなた)には永遠の世界が存在するのであります。
われわれは、いつまでもこの世に生きていられるわけではありません。吾人は、よく生きて七十、八十でしょう。百年も生きれば、いわゆる大往生(だいおうじょう)であります。
われわれの生涯は、もう間もなく終わります。宇宙の営みからすれば我々の人生なぞ瞬(またた)く間の出来事にすぎません。ほんの一瞬です。
吾人の寿命など、その本質において蜻蛉(かげろう)の寿命と選ぶところはありません。われわれの人生は明日、終わるかも知れない儚(はかな)いものであります。
栄華を極めたあの豊臣秀吉も「難波のことも夢のまた夢」と言って死んでゆきました。自らの権勢に未練たらたらで世を去ったのです。
したがって、歴史を知っている後世に生きているわれわれは秀吉の轍(てつ)を踏まないように死について十分に考えて備えておくということが必要になります。(つづく)

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