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聖書を読んでいますと「迷える子羊」という譬(たと)えが出てきます。吾人は「迷える子羊」である、と聖書は主張します。
「迷える子羊」という言葉は夏目漱石の著した『吾輩は猫である』にも「ストレイシープ」として紹介されています。
同書で漱石は「迷える子羊」という言葉を指してキリストの教えを侮蔑(ぶべつ)しています。漱石はイギリスに留学しているので聖書を読んでいたのでしょう。
ご承知のとおり、この世には困難があります。吾人ひとりの力では如何(いかん)ともし難い場面に遭遇したことは誰しも経験があるのではないでしょうか。
われわれの人生は大海に浮かぶ笹船のようなものです。吾人は、いわゆる「迷える子羊」であることを謙虚に認めなければならないと思います。
科学者の中のある人々は人智の及ばない大きな力を素直に神とは言わずに「サムシング・グレート」と言っています。
思うに、さような血の通わない抽象的な概念を信じて「迷える子羊」という喩えにネガティブに反応している人間は人生のあらゆるシーンにおいて激しく動揺するのではありますまいか。
無神論者は人生の途上で大きな問題が起きてくると大海に浮かぶ笹船のように右往左往するだけです。漱石も例外たり得なかったことは彼の生涯を調べてみるとよく判ります。
それでは神を信じているキリスト者であるお前は人生の全てのシ-ンで少しも動じずに生きているのか、と問われたら、わたしは即座に返答できかねます。
もし動揺はない、と言うとするならば、それは嘘になります。人間は強がっていても所詮(しょせん)は「迷える子羊」なのです。
人生は厳粛な綱渡りです。時々、突風が吹きつけて来て綱の上でよろめくこともあります。それはそうです。生身の人間なのだから。
さはさりながら、あたふたしながらも聖書の教えを羅針盤としながら、この世を愚直に真摯に航海してゆくのが信仰者である、とわたしは考えています。
聖書もこの世では患難が多いと述べています。キリスト教を信じれば万事うまくいく、などとは聖書の何処にも書いてありません。キリスト者でも人生の途上で当然に困難に出遭います。
新約聖書を読みますとイエスの弟子の使徒ペテロなどは当時の最高権威たるユダヤのサンヘドリン(今の日本で言えば「国会」のようなところ)に召喚されています。
言葉を間違えば身に危険が迫る緊迫した場面でサンヘドリンのお歴々に向かいペテロは実に堂々とかつ大胆に反論しています。
しかしながら、そのペテロですら悔い改める前には自己保身のゆえに師たるイエスを知らないと三度も否定しているのです。ペテロは死を前に激しく動揺したのであります。
教育現場で子供たちを見ていても皆それぞれ「迷える子羊」であり、だからこそ子供たちを指導する意味があり共に歩む必要がある、とわたしは考えています。(つづく)
| 難しい言葉 | 読み方 | 意味(やさしい説明) |
|---|---|---|
| 厳粛 | げんしゅく | まじめで重々しく、心が引き締まる様子 |
| 綱渡り | つなわたり | 綱の上を歩く芸。転じて、危険や困難な状況を進むこと |
| 迷える子羊 | まよえるこひつじ | 道に迷った羊のこと。転じて、助けや導きを必要とする人間のたとえ |
| 譬え(譬) | たとえ | たとえ話、比喩 |
| 侮蔑 | ぶべつ | 見下して、ばかにすること |
| 困難 | こんなん | 難しいこと、苦しい状況 |
| 笹船 | ささぶね | 笹の葉で作った小さな船。弱くてすぐ流されるもののたとえ |
| 無神論者 | むしんろんしゃ | 神の存在を信じない人 |
| 羅針盤 | らしんばん | 船の進む方向を示す道具。転じて、人生の指針となるもの |
| 患難 | かんなん | 苦しみや災難 |
| サンヘドリン | さんへどりん | 古代ユダヤの最高議会。日本で言えば「国会」のような場所 |
| 使徒 | しと | イエスの弟子たちのこと |
| 動揺 | どうよう | 心が乱れて落ち着かないこと |
| 自己保身 | じこほしん | 自分の身を守ろうとすること |
| 悔い改め | くいあらため | 自分の過ちを反省して正すこと |

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