迷える羊

冬去りぬ。画像に写っている教室のストーブをそろそろ片付けなくてはなりません。

聖書を読んでいますと「迷える羊」という譬(たと)えが出てきます。われわれ人間は「迷える羊」である、と聖書は主張します。

「迷える羊」という言葉は夏目漱石の著した『吾輩は猫である』にも「ストレイシープ」として紹介されています。「ストレイシープ」は「迷える羊」の英語訳です。

同書で漱石は「ストレイシープ」という言葉を指してキリストの教えを嘲(あざけ)っています。漱石はイギリスに留学しているので聖書を読んでいたのでしょう。

この世には困難があります。われわれひとりの力では如何(いかん)ともし難い場面に遭遇したことは誰しも経験があるのではないでしょうか。

われわれの人生は大海に浮かぶ笹船のようなものです。われわれは、いわゆる「迷える羊」であることを謙虚に認めなければならないと思います。それを認めないから漱石の心は病んだのではありますまいか。

科学者の中のある人々は人智の及ばない大きな力を神とは言わずに「サムシング・グレート」と言っています。科学者のなかにも薄々、神の存在を感じている人はいるのです。

思うに、さような血の通わない抽象的な概念を信じている人間は人生のあらゆるシーンにおいて激しく動揺するのではありますまいか。

漱石のように信仰を侮蔑し、過度に理性を尊重する人間は人生の途上で大きな問題が起きてくると大海に浮かぶ笹船のように右往左往(うおうさおう)するだけです。

それでは神を信じているキリスト者であるお前は人生の全てのシ-ンで少しも動じずに生きているのかと問われたら、さすがに然(しか)りとは言えません。

もし動揺はない、と答えるならば、それは嘘になります。人間は強がっていても所詮(しょせん)は「迷える羊」なのです。

人生は厳粛な綱渡りです。時々、突風が吹きつけて来て綱の上でよろめくこともあります。繰り返しますが人間は羊のように弱い存在なのです。

さはさりながら、あたふたしながらも聖書の教えを羅針盤としながら、この世を愚直に真摯に航行してゆくのが信仰者である、とわたしは考えています。

聖書もこの世では患難(かんなん)がある、と述べています。キリスト教を信じれば万事うまくいく、などとは聖書の何処(どこ)にも書いてありません。 つづく

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