迷える羊(2)
新約聖書を読みますとイエスの弟子の使徒ペテロは当時の最高権威たるユダヤのサンヘドリン(今の日本で言えば「国会」のような場所)に召喚(しょうかん)されています。
言葉を間違えば身に危険が迫る緊迫した場面でペテロはサンヘドリンのお歴々に向かい、堂々とかつ大胆に反論しています。
しかしながら、そのペテロですら悔い改める前には自己保身のゆえに師たるイエスを知らないと三回も否定しているのです。死を前に激しく動揺したのであります。
聖書にはこんな言葉があります。すなわち「この世の子らは光の子らよりも利口である」。思うにキリスト者だから世間で平穏無事に暮らし、万事、順風満帆であるとは限りません。
むしろ問題課題が山積しているかも知れません。一見、世間一般の人々の方がこの人生行路をうまく生きているように思えることもあります。
けれども、それはあくまでもこの世でのことです。われわれは人生の終着点に、あるいはそれ以後に目を向けなければなりません。死後の世界までを含むパースペクティブで見ますと事情は著しく異なってきます。
わたしは人生をいい加減に生きていい、とは決して申してはいません。この人生は永遠の世界への入り口である、ゆえに人生は厳粛である、と主張したいのであります。
われわれキリスト者は日々、聖書を読み、熱心に祈り、間違った方向に逸(そ)れてゆかないようにバランスを取りながらこの人生で厳粛な綱渡りをしているのです。
ですから、わたしはキリスト者として、これからも勤勉に信仰生活にいそしみたい。日々、怠ることなく聖書や信仰書を読んでゆきたい。そして世のため人のために役に立つ人生を歩んでゆきたい。
わたしの敬愛する両親のように。立派ないにしえの聖徒(せいと)たちのように。キリスト者の同志諸君、外野からは心ない悪口雑言を必ず浴びせられましょう。けれども失望することなく熱心に信仰の道を歩んでゆこうではありませんか。 (了)