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現代のイラストレーターの中で、わたしが好きなのは江口寿史氏である。若い頃から好きなイラストレーターのひとりで画集も購入している。画集を購入しては売り、購入しては売り、ということを繰り返して来た。イラストを何度も見ていると飽きるので別の画集を購入したくなるのだ。
これはイラストの売買、すなわち絵画の売買であり、美術愛好家と構造あるいは心性が同じではあるまいか。特定の美術品に目を留めて、それを入手して愛玩する、ということをわたしは江口氏の画集を買うことで自然に行ってきたように思う。
江口氏は今年で古希だ。江口氏のイラストは現代のいわゆる美人画である。氏の描くイラストは古くは浮世絵から現代イラストへと続く日本的美の流れの中にある。彼は元々は漫画家だ。面白いのは漫画の文法をイラストに援用しているところだ。
特に指摘しておきたいのが彼の描く作品が幅広く支持されている、ということだ。多くの需要がある。それは氏が描くイラストの完成度の高さの所為もあるだろう。ほとんど職人芸だ。それゆえ多くのファンがいる。
はたして誰にも理解されない芸術にはレーゾンデートルがあるのだろうか。過度な商業主義に走ったり、大衆に迎合する必要は毛頭ないが皆に広く受け入れられている、というのは看過できない視点ではないか。
わたしには絵画が分からない。しかし、イラストなら分かる。江口寿史氏のイラストならばよく分かる。時々、仕事に疲れたら氏のイラストを見て癒される。わたしの美術鑑賞のひとときと言い得るだろう。わたしは小林秀雄のようにゴッホについて鋭い芸術論を書くことはできない。
けれども、江口寿史氏のイラストについてならば読者諸賢とイラスト論とでもいうべき感想の共有ができるのではないかと思う。そう思いながらこの記事を書いている。
江口寿史氏のイラストは文学でいえば大衆文学と言い得る。少なくとも純文学ではないだろう。だが、氏のイラストには独特の魅力がある。江口氏の作品をあえてカテゴライズしてみたが大衆文学とか純文学とか論評することは詰まらない。虚心坦懐に氏の作品と対峙すればいいのだ。
氏の作品は一口に言えば洗練されている。そこには醜悪な要素はない。美的な恍惚とする快さがある。抗し難い妖しい魅力がある。こういう魅力が古希を迎えたであろう老人に支えられていることをよく考えてもいいのではないか。
然り、日本のアートシーンは熟練の職人に支えられているのだ。若い人の芸術作品を否定しているのではない。年齢を重ねることで魅力を増す世界がある、ということを噛みしめたい。日本語には円熟という言葉もあるのだ。
例えば、音楽でいえばカシオペアのリーダーたる野呂一生氏がそうだろう。とてもいい曲を作る。野呂氏も相当な高齢であるまいか。あるいは山下達郎氏がそうではないか。動画サイトで彼の「サーカスタウン」を聴いてみてほしい。心弾む軽快な曲だ。ふたりとも高齢だ。わたしは両者の曲を共に学生時代から好んで聴いてきた。
話を戻すが江口寿史氏のイラストを巡っては最近、問題が出来している。肖像権の問題だ。確かに肖像権問題は無視できない。他人の権利は尊重すべきだ。改めるべきは改めるべきだ。
けれども、はなはだ剣呑な述べ方になるかも知れないが、そうであってなお江口寿史氏の作品の魅力は否定できない。わたしは江口寿史氏のにわかファンではない。わたしは江口寿史氏の人柄は分からない。ただ、作品の良さは十分、分かるのだ。
わたしは貧乏で余裕のなかった若い頃から彼の画集を身銭を切って購入して来た。美術鑑賞というのは身銭を切って買う、というのが大事なことのようだ。苦労して稼いだお金を差し出すとき、人は初めて本当に欲しいものを見極めようとする。 その際に審美眼が鍛えられるのではないか。
小林秀雄の文章を読んでいると刀の話が書いてある。刀には「うつり」というのがあるそうだ。素人がいくら見ても分からない。「ほら、ここにうつりが見えていますよ」と言われてもピンと来ない。「はは、まだお分かりにならないのですね」と刀屋はいう。
これは想像ではない。見てみて見抜くと「うつり」は自然と見えてくるもののようだ。そう小林は言う。刀は美術品で奥が深い。「うつり」という難しい愉しみ方がある。一方で江口寿史氏のイラストは奥が深いが分かりやすい。対照的だが両者共に芸術品であることに異論はあるまい。
けれども、大量消費の現代社会では分かりやすい芸術だけ受け入れられて、そうでない芸術品は一部の好事家に受け入れらるだけになってはいまいか。もし、そうだとしたら勿体ないことである。
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