読めて、書けて、受かる中学受験専門国語塾。
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営業時間:14:50-22:10
塾講師として教える能力があることは無上の喜びだろう。生徒から慕われ、同僚からは一目置かれる。塾に長くいられるし、上手くすると教室長になれて出世もできる。むろん責任者になれば働き甲斐があるし、高い収入を得ることも可能だ。
教える技術があることは我が身を助ける。塾で長く教鞭を取ることができる。その結果、経済的にも安定する。
一方、教える技術がないと、やがて塾を追われることになる。大手の塾なら生徒アンケートが必ずある。そのアンケートで不評であれば、そしてそれが続けば、肩を叩かれる。
かつて地元の大手塾で小中学生に国語を教えていた時、直属の上司である室長の勤務態度は真面目ではなかった。だが教える技術は高かった。彼は教師の仕事を嫌がっていた。秘かに市役所職員の試験を受けたが受からなかった。けれども生徒諸君からは慕われていた。
彼は生徒アンケートではいつもトップクラスだった。だから自分の腕に自信を持っていた。彼は東三河では知らない者はいない名門校たる時習館高校を卒業していた。それゆえ地頭は良かったのだろう。
授業以外の時間、職員室でパソコンでゲームばかりしていた。その癖、部下には偉そうなことを言っていた。いつも教室にスポーツカーを乗りつけていた。彼はその塾では古参の教師だった。結果を出していたので誰も文句は言えなかった。
一方のわたしは当時、新人だったので事務業務、授業前の机の整頓、授業、授業後の机の整頓、業務日報の作成などに追われていて息つく暇もなかった。中古の軽自動車が自家用車で、それで教室間を移動していた。
わたしが思うに教える技術は教室内でだけ通用する技術だ。上手く教えるテクニックはその場限りの能力ではあるまいか。
一方で書く能力は時間を超える。空間を超える。文字で書いた思想は100年後の読者にも届く。1000km離れた読者にも届く。
然り、書く力は時空を超えるのだ。だからこそ、わたしは次にように考える。子どもたちは書く力を身につけるべきだ。読む力を身につけるべきだ。つまり、国語力を身につけるべきだ。国語力が将来の自分を助けるのだ。
「わたしのことなんて誰も分かりはしない」と嘆いて悲嘆に暮れる人がいる。然り、分かる人がいればエスパーだ。自分の心情は正確に伝えるべく努力しなければ相手には理解してもらえないのだ。心は目に見えないからだ。
自分のことを分かってほしいなら自分の心の襞まで細かく掬い上げる技術を習得すべきだ。それこそが文章を書く能力なのである。
しかし、さように述べてもすぐにこういう反論があるかも知れない。教える技術も残り得る。映像があるではないか、と。今の時代、YouTubeで教え方の巧みさは動画として永遠に残るのではないか、と。
たしかに、わたしもそう考えたことがある。事実、YouTubeに投稿を続けることで塾経営が上手くいっている塾もある。
わたしも動画投稿を行っていた時期もあるが、動画投稿はどうも苦手だ。そこで動画投稿ではなく今はブログ記事を書くことに舵を切った。
書いているうちに気づいた。文章が残すものは“精神”である、と。映像は“情報”を残すが、文章は“精神”を残す。“情報”は一過性のものだが“精神”はそうではない。永遠に残る。不朽のものである。古今東西の名作は皆、文章によって書かれている。
映像の文化はまだ新しい。映像の代表格は総合芸術といわれる映画だと思う。例えばコッポラの『ゴッドファーザー』など映像でありながらあんなにも見る者の胸を打つ。
しかし、そうであってなお、文章は映像よりも残る。文章を書くのには乱暴に言えば紙とペンさえあればいい。何処ででも書く意欲があれば執筆できる。賃貸マンションの一室からも発信できるのだ。とても民主的だ。
わたしの文章は読者の心の中で“再生”される。朝の通勤電車で。夜の静かな部屋で。子どもが寝た後のリビングで。ふとした瞬間の思索の中で。これは映像では起こらない現象だ。文章だけが持つ奇跡だ。
IT革命により様々な合理化が進められたがメールだけは今に至るまで淘汰されていない。新しいメディアが次々に登場してもメールだけは生き残っている。
それゆえ、我が塾はメルマガにより我が塾を知ってもうおうと思い、現在、読み手に効果的に届くように模索している最中だ。
以上のような理由からわたしは今後もブログの記事を書き続ける。国語塾のあるべき姿に一歩でも近づくために今日も記事を発表していく。
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