地上の旅人

思うに、我が塾は経済的な成功を第一にしては駄目だ。魂を預かる塾の塾長が金満家では託されている使命を果たすことはできない。したがって、今の我が塾の不遇は富の誘惑から神が守ってくださっているのだ。

一体、精神的な仕事をする者はお金を追いかけるとすぐに堕落してしまう。我が塾は清貧の塾に甘んじるべきだ。わたしは、お金や異性、名誉などを追い求めたために牧師の職を追われた人を知っている。彼らは優先順位を完全に間違えた。

我が塾は国語塾として、お金を第一にしてはいけない。我が塾はいわゆる教会であるべきなのだ。教会に集って来る人々は概ね問題を抱え、傷ついて、門を叩いてくる。決して大勢ではない。けれども、敬虔な人々の集まりである。さような人々から多くの献金を期待しては駄目なのだ。

国語塾にも国語力が弱く、実力を付けて、成績を上げたい生徒諸君が通っている。大勢ではない。しかし、皆、真面目に真剣に授業に取り組んでいる。

塾は教会の牧会に似ているところがある。だから、長い間、右にも左にも逸れずに牧会をして来た父はわたしに尋ねた。「生徒一人一人のために祈っているか」と。

我が塾の塾生数は十名にも満たない。さような小さな群れの指導者がわたしなのである。塾生は少ないながら保護者の方から託された愛すべき魂なのだ。したがって、幼い魂のためにできる限りの配慮をすべきであって彼らを失望落胆させてはいけないのである。

正直に打ち明けると、現在、我が塾には問題、課題が少なくない。それらに誠実に対処したい。国語塾のレーゾンデートル(存在意義)は確かにある。需要もある。だが片手間にできる仕事ではない。副業としてはできない。国語塾の運営は簡単でも楽でもない。

教会の日曜学校がわたしの教育者としての原点だ。日曜学校では聖書の物語を聞いた。例えば、旧約聖書の「創世記」に登場する奴隷から宰相になったヨセフの物語に聞き入った。聖書はイソップ物語ではない。史実である。聖書の物語は断じてアレゴリー(寓話)ではない。聖書は字義どおり解釈すべきだ。

聖書はしばしば人生を旅に喩えている。自分の泊まっている旅館やホテルを自慢するとしたら愚かではないだろうか。亡くなったテレビ司会者の豪邸も彼の死後、広すぎて維持するのに費用がかかるので売却されたと聞く。彼岸に財産を持っていくことはできないのだ。

わたしは豪邸や高級車を自慢の種にするような俗物紳士を軽蔑する。我々は地上では旅をしているのだ。死んだら次の世には財産を持っていけないのだ。彼はホテルやレンタカーを自慢しているようなものだ。

わたしは財産を自慢する人物よりは自分の教養を高める努力をしている人物の方がまだましだと思う。だが、あくまでも「まし」なのだ。天の故郷に入れねば地上での生涯は失敗ということになる、とわたしは信じている。失敗の人生があり得る、という厳粛な事実を聖書は教えている。

「我らの国籍は天にあり」とピリピ人への手紙に記されている。わたしの長い旅路も遂に終わろうとしている。新約聖書には以下のようにも記されている。

良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。(マタイによる福音書)

バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。(マタイによる福音書)

以上のように主人たる神から労いの御言葉をかけてもらえるように努める。のみならず、わたしは死力を尽くす。何となれば「天国は激しく襲われている」からだ。

そういう次第で、わたしは天の故郷を見据えて地上四階の教室で今日も生徒諸君と真摯に対峙するのだ。

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