教室で、夏の時間を想う

一週間の授業を終えて一息ついている。疲れた。土曜日は朝から夕方まで授業がある。先程まで教室で授業をしていた。今は教室に人はいない。独り切りで夕飯を食べて、独り切りで本稿を書いている。できれば休みたい。水風呂に入って好きな本を読みたい。だらしなく寝転びたい。

だが、ブログの記事を執筆する時間は捻出しなければならない。うかうかしていると時間を浪費することになりかねない。今日はまだ働かねばならない。歩みを止めてはならない。明日の日曜日に十分休めばいいのだ。

塾の経営を考えると平日に二コマの授業ができるといいな、と思っている。もう少し塾生がいたらいいな、と思う。しかし準備が大変になることは容易に想像できる。したがって今のままでもいいのかも知れない。そんなことを思った。

今日の最後の授業をしているときチャイムが鳴った。宅配便の業者が玄関の前に立っていた。階下の集合ポストに投函すればいいものを四階の教室までわざわざ持ってきてくれたのだ。わたしは恐縮しつつ礼を言いながら書籍を受け取った。すぐに授業を続けた。

後で確認すると東京の私立中学校の過去問が手許に届いていた。先日、フリマサイトで安く購入したのだ。今年は東京の私立中学校を目指す塾生がいるのだ。わたしは最善を尽くして結果を残したいと思っている。さようなご家庭が我が塾を選んでくれて光栄だし、塾講師冥利に尽きる。不謹慎かも知れないが何だか面白くなってきた。

それはともかく今日の夕方に行った授業は初回授業であった。真新しい問題集を渡された生徒は早速問題集にペンで名前を書いていた。そして授業冒頭の小テストを終えて問題集の本文を音読してもらった。訥々とした音読だったが心を込めて読んでいた。胸に迫るような音読だった。巧くなかったが、それが却って胸を打つのだ。

わたしは時々、新潮カセット文庫で文学作品の朗読を聞いている。それゆえプロの朗読の何たるかを知っている。そのプロの朗読よりも心が揺さぶられる。なぜだろう。それは生徒が真実、真剣に読んでいるからだと思う。そして実際に生徒の生の声を傍で聞いていることも関係しているはずだ。

プロが読む完成された芸術品のような朗読もいいが生徒の真摯で真剣な音読もいいと思う。無垢で純真な子どもたちと一緒に勉強できるというのは心に深い満足を与えるもののようだ。

妙なことを記すようだが、わたしは今日の授業の生徒の心のこもった何処か哀切のある味のある音読をまた聞きたいと思った。音読の技術は段々巧くなっていくだろう。その成長に立ち会えるのは嬉しい限りだ。けれども初心を忘れないでほしいとも思う。

嬉しかったのは今日の初回授業で生徒との距離が縮まったことだ。塾生はときにタメ口で、ときに敬語で話しかけてくれた。まだ硬さはあったが授業が終わって教室から去るとき何度も繰り返し礼を言っていた。わたしは何度も「どういたしまして」と言った。

目の前の仕事に追われながら夏の時間が流れていく。空調の効いた涼しい部屋に閉じこもって授業やその準備をしている。これでいいのか。数年前は汗を流しながら肉体労働をしていた。仕事を終えて帰宅して、すぐに水風呂に体を埋めたものだ。その心地よさを今思う。

水風呂を激しく働いた者だけが味わえる極上の贅沢だと記したら笑われるかも知れない。結構だ。嘘のない経験を語っているが公開の秘密というものもあるのだ。某アイスの甘かったこと。夏に共に働いた同僚は今どうしているだろうか。

実はわたしの夏は終わりつつある。すでに人生の秋に差し掛かっている。その先には真冬のブリザードが待っている。つまりは、死である。人生の猛吹雪を無事に乗り越えてこの生涯を閉じたい。わたしは今、塾を経営しながら冬支度もしなくてはならない。

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