朝の一番いい時間

今日も二コマの授業が終わり、先程、スーパーの買い物袋に入っていたレトルトカレーを湯煎して平らげた。福神漬けを買っておけばよかった。食後のデザートに箱入りのアイスを小さな匙で掬って、そのまま口に運ぶ。そして休む間もなくパソコンで本稿を書いている。デジタル時計はすでに八時を過ぎていた。むろん今日はもう授業はない。わたしは机上の生徒ファイルを確認して本箱へ戻した。

そこまでして、なぜブログの記事を書くのか訝しく思われる読者諸賢もおられるかも知れない。その理由を端的に記せば、読んで評価してくれる人がいるからだ。最近、ほぼ毎日記事を更新できているのはAIが評価してくれるからだ。誰も何も言ってくれないなら、わたしもここまで記事を書けなかったはずだ。

しかも、ただ「面白いですね」と言ってくれるだけではない。自分では気づかなかった文章の特徴や論理の弱いところまで指摘してくれる。それが面白いのである。ページを繰る音が聞こえてくるようだ。ホワイトボードにペンがぶつかる音も。中学生や高校生を対象にしている塾は今まさに授業は佳境に入ったところだろう。負けていられない。

かつてフジヤマのトビウオと称された古橋廣之進は凄かった。日本は1948年に開催されたロンドンオリンピックには参加できなかった。しかし日本水泳連盟は、オリンピックの競泳と同じ日程で日本選手権を開催した。1500m自由形で古橋廣之進が記録した18分37秒0は、当時の世界記録を21秒8上回る驚異的な記録だった。歴史に「もし」はないが古橋が当時のオリンピックに出場していたらどうなっていたか。

なぜわたしがこの話を知っているかと言うと漫画を読んでいたからだ。伊藤智義原作、森田信吾作画『栄光なき天才たち』(集英社刊)という漫画だ。わたしはダンテの『神曲』から伊藤、森田両氏の『栄光なき天才たち』まで読む。ダンテの『神曲』は難解だ。よく分からなかった。

わたしも教室で独り、執筆をしている。他の塾講師は授業をしている。そう思うと、わたしも体力の許す限り執筆を続けたいという気持ちになれた。ブログを書くことにわたしはこだわる。アスリートたちがメダルにこだわるように。ただ、年齢が年齢だけに無理はできない。

今日の授業を思い出す。女の子はひとり含み笑いをしていた。問題を解いている時に静かに足をぶらんぶらんさせていた。我が塾にもう慣れてほしい。塾を好きになってほしい。むろん国語の力もつけてほしい。さように思った。女の子は小さな声で質問もしてくれた。

この子は口数が少なく問題を解き終えると目で合図してくるくらいなのだ。しかし、わたしはきちんと伝わるように話しなさい、とは言わない。女の子が真剣に努力しているのが判るからだ。そこさえブレなければ、わたしは塾講師としては甘いと言われるくらい寛容な方だと思う。やる気があって素直な生徒にはとことん付き合う。ここまで書いてきたが無理せず続きは明朝書くとしよう。

というわけで今、朝の四時である。塾経営が軌道に乗り始めているのと軌を一にして早朝に目が醒めてしまう。外はまだ暗い。ここで服薬して改めて寝床に戻るのが大抵だが昨晩、着手した本稿を完成させるべく筆を進めている。一晩寝たので昨晩の疲れは取れている。朝の一番いい時間を本稿執筆に充てている。

父が先般、説教原稿をふたつに折り畳んでスマートレターに入れて送付してくれた。ふと思う。父が教会を牧会していた時、早天祈禱会というのがあって仕事へ行く前の早朝に有志が集まって祈っていた。有志の方はふたり共にすでに戦いの多かった人生を終えている。そして本稿を記しているわたしは教会から離れてしまい、まだ地上で悪戦苦闘している。

父もまた暗いうちから起きて朝の一番いい時間を神に捧げていた。教会開拓時代の早天祈禱会で父は手を組んだまま眠ってしまったことがあった。教会員の述懐で知った。彼女は非難しているのではなかった。むしろ―わたしは全身温かいものに包まれた。早天祈禱会など行っている教会は名古屋ではわたしの知る限りない。

早天祈祷会に出ていたのは父と教会員ふたりだ。わたしは、ふたりの顔をありありと思い浮かべることができる。職業はささやかだった。有名企業に勤める高給取りではなかった。けれども神に対する姿勢は確かだった。それゆえ仕事振りは不器用だったかも知れないが一心に働いていたはずだ。事実、ふたりは長年失業もせずに家族を養っていた。

父は牧師を退いて久しいが今このひと時も教会員の名前を上げながら一人ひとりのために祈っているはずだ。宗教は愚かだろうか。父が現役のときに敬虔さは決して身を滅ぼさない、という趣旨のことを礼拝で語っていた。宗教に熱心であっても、それが妙な方向へ行かず、早朝に起きて祈るというのであれば、その情熱は評価されていい。

脈絡もなく福音書の一節を思う。「彼らはすでに報いを受けているのである」。誤解のないように聖書から該当箇所のテキストを引用しておく。マタイによる福音書の六章からだ。なお、訳は新共同訳である。

《祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。

だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。》

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