スマホ社会と静寂の喪失─子どもたちに必要な力(2)

2025年の大晦日の特訓自習会での一コマです。

われわれは時には周囲の雑音を意識して排除し、神のみ前に静まるひとときを持つべきではないでしょうか。

現代人はわずかな静寂にも耐えることができないようです。静かに内省することができないから軽薄な思想が幅を利かせているとも言い得る。

たとえば「勝ち組」「負け組」などがその典型でしょう。何という単純な二元論か。しかし、世人はこの思想の支配から自由ではないのです。

世の人々は「勝ち組」になろうと血相を変えて遮二無二がんばっている。いきおい殺伐とした世の中になる。思うに世の中にいわゆる愛があふれれば、こんな素敵なことはない。

けれども、皆、自分が可愛いのですね。自分と家族さえ「勝ち組」であればいい。あとは「負け組」になろうとも一向に構わない。いっそ「負け組」になれと願っています。

自分、自分、自分の事に汲々(きゅうきゅう)としています。自分の利害の範囲以内でしか他者と付き合うことをしない。計算抜き、打算抜きの付き合いができないのです。淋しいことです。

しかし、ただ慨歎(がいたん)するばかりで手をこまねいていてはならない、とも思います。愛にあふれた世の中にできるか否かは、われわれの双肩にかかっているからです。

自分を超越することが「魂の解放」ですね。これとは反対に自分の世界しか見えず他者に関心を持てないとしたら、それは「魂の牢獄」と言い得るのではないでしょうか。

たとえば道端に咲いている小さな花を愛(め)でる、という些細(ささい)なことも外の世界に関心を向けるという点では意味のあることだと思います。

けれども大抵の人は路傍(ろぼう)の花なんか見向きもせず、その代わりに腕時計を一瞥(いちべつ)して、せかせかと急ぎ足で通り過ぎていくのです。

以上のようなことも自己反省の時間を持たなければ到底、考えが及びません。たしかに現代社会で生活していると忙しいし受験や仕事が甘いものではない、ということも十分、理解できます。

ただ、忙しくしていて大事なものを見もせず、考えもせず、遂に死の床に臥せった時、自分の人生は一体何だったのか、と後悔することになったら慄然とするほど恐ろしい。そうならない内に魂を解放すべきです。

最後になりますが、だからこそ子どもたちにも静かに自分と向き合う時間を持ってほしいのです。勉強することは魂を解放し、世界に心を開くための営みでもあるのです。(了)


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